【大紀元日本12月20日】谷崎潤一郎の『痴人の愛』にこんなくだりがある。
「その明くる日、ナオミは私から二百円貰って、一人で三越へ行き、私は会社で午の休みに、母親へ宛てて始めて無心状を書いたものです。」
浅学の私には「無心状」ということばが新鮮で、しばしはてなと考えたのですが、続きを読んで合点がいきました。
「……何分この頃は物価高く、二三年前とは驚くほどの相違にて、さしたる贅沢を致さざるにも不拘(かかわらず)、月々の経費に追われ、都会生活もなかなか容易に無之(これなく)、……」
「お金を無心する手紙」ということだったのです。ただ、そこでますます不思議になりました。「無心」はよく、「子供が無心に遊ぶ」のように、「余計なことを考えずに」といった意味で使います。この「無心」と上の「無心」はどう関係するのでしょうか。
「無心」とは文字通り「心が無い」ことです。ただ、その場合の「心」には、相手を思いやる善の心と、それに相対する邪の心があり、善の心が無ければ、無情とか思慮分別がないということになりますが、現代語にはこの用法はほとんど残っておらず、わずかに「無心する」ということばの中に名残を留めているだけです。つまり、「無心する」とは、「相手の状況を思いやることなく頼む」ということです。
それに対して、善の心であれ邪の心であれ、いかなる心も無くなり、心が空となることもまた「無心」であり、そうなれば「一心不乱で無邪気」になります。「子供が無心に遊ぶ」の「無心」がそうです。
一方、中国語の『無心』は古くから、「空」の意味のほかに、「何かをしようとする意図が無い」という意味で使われ、それが現代まで引き継がれています。ですから、「無心に遊ぶ」も「お金を無心する」も中国人には理解しがたいということになります。
(智)
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