英国バイリンガル子育て奮闘記(2)

就学前(1989~1992年) マミーの言葉、ダディーの言葉

 英国の片田舎で「日本語で」娘を育てるということは、周りに合わせたり、周りの目を気にしたりする日本人気質をかなぐりすてるということだった。 周りに合わせようにも周りがない。 自分のルールは自分で決めるしかなかった。

 バイリンガル子育ての方針として、母親は100% 日本語、父親は100%英語を使うことにした。後で学んだのだが、これはone-person-one-language(一人一言語)方式というそうだ。子供は親の顔によって言語を切り替える事になる。夫婦の会話は英語だったが、私は娘に対しては必ず日本語に切り替えた。娘も日本語が分からなければ、欲しい物にありつけなかったわけだ。

 「マミー」「ダディー」は、人の名前と同じだと思い、日本語でも同じ言葉にした。Spoonは「スプーン」にしようか「おさじ」にしようか、今の日本人はどういうんだろうかと悩み、Pinkは「桃色」とは言わずに現代の日本語では「ピンク」というのか、とクレヨンに巻いてある紙を見て納得するなど、一つ一つ手探りだった。子育ては、その場での即座の対応が迫られる。すぐに日本語で言いたいのに、四苦八苦する有様だった。

 ちょうど日本のビデオが映る機器の切り替えの時期に入ってしまい、半年は市場に出回らないと電気屋に言われ、日本から『おかあさんといっしょ』の音声だけをカセットテープに吹き込んで送ってもらった。こちらの耳にタコができるほど、キッチンで何度も何度も、じゃじゃうま、ぴっころ、ぽろりの同じ会話を流した。2歳過ぎだったと思う。娘がカセットプレーヤーに吸い寄せられ、熱心に聞き始めた瞬間があった。音と意味がつながった瞬間だったのだろうか。

 カセットテープには映像はないので、体操などは私が想像して音に合わせて作ったりした。そして、娘が2歳半の頃、待望のビデオが手に入り、実際の『おかあさんといっしょ』を見たら、「なんだ、私の動作の方がよっぽど面白いじゃないの」と気が抜けたのを覚えている。 画面なしで音声だけから日本語を入れたことで、 2歳の娘の中に日本語がより深く浸透したのではないかと、当時の不便さに今は感謝している。
 

(続く)