アメリカの初代大統領といえば、ジョージ・ワシントンであることは誰もが知っているだろう。しかし、ジョージを初代大統領にまで登り詰めさせた母メアリー・ボール・ワシントンの存在はあまり知られていない。
植民地の育成
メアリーの生い立ちはすさまじい。当時住んでいたバージニア州では植民地主義が広がっていた。家族全員を12歳になるまでに失くしたメアリーは少女時代を孤児として暮らした。その後、夫オーガスティンと結婚した彼女は5人の子供を立派に育て上げた。彼女のその手腕は有名で、1743年に夫を失くした後でも、かなりの土地を経営することで生計を立てた。当時、ごく一部の男性しか達成できないような業績は、世間に知れ渡ることはなかったが、間違いなくメアリーの能力を証明するものだ。
植民地価値
メアリーは、子供の教育にも熱心であったという。聖書や本から引用した言葉で知恵を与え、特にジョージには読書することを強く勧めたという。メアリーによって収集された本は、ジョージの死後まで図書館で大切に保管されていたという。
こういったメアリーの教育熱心な部分に加え、彼女は世渡りもうまかったようだ。伝記作家のフィリップ・レヴィによると、当時メアリーは農場だけでの収入では足らず、家内工業も営んでいた可能性があると指摘した。こういった彼女の逞しさや、聡明さを考えると、ジョージの将来に大きな影響を与えたことは容易に想像がつくだろう。
しかし、メアリーとジョージの関係は複雑であったという。女手一つで家族を支えるメアリーは、時折、横暴な態度をとることもあり、1746年にジョージがイギリス海軍に入隊しようと迷っていると、それが本当に将来に繋がるのかと、改めて考え直させた。そしてイギリスに住む兄弟ジョンに手紙を書き、海軍入隊を拒否させたという。
その後、ジョージは土地調査員としてのキャリアを掴み、これが直接的な要因となって、その後始まる植民地主義の知識を与えたのだという。
革命中の変化
革命によって引き起こされた戦争は多くの人々の人生をひっくり返した。もちろんそこにはメアリーも含まれ、彼女は1780年から1801年までイギリス軍から身を隠す生活を続けなければならなかった。その後70歳になったメアリーは、息子のサムエルを失くし、娘のベティの夫の死によって、経済的支援も失ったが、それでも息子たちの反対を押し切って、その後ほとんどの時間を1人で過ごしたという。
メアリーの遺産
メアリーは1789年に80歳でこの世を去った。この長寿は、息子がアメリカ初代大統領に就任する姿を見るのに十分な年月であっただろう。ジョージは妹のベティー宛の手紙に「親の死を見届けるものほど酷い経験はない。だが、天国があると知れるだけで慰められるようだ」と綴った。さらに、1833年にアンドリュー・ジャクソン大統領によってメアリーの記念塔が建設され、ジョージ・ワシントンを育て上げた人物として今でも敬われている。
(大紀元日本ウェブ編集部)
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