書道の奥深さ

中国の書道は古来、文字の気質と神韻を重んじてきました。文字は、一国の文化に関わるだけでなく、書人の性格、志向と思想を表します。「字は人なり、人は字なり、文は人なり、文は道を載せる」と、古代中国人が言いますが、それはつまり、字を書く前に身を処するべきであり、心を正しく持つこそ書がうまくなるということです。

前漢時代の学者・揚雄(よう・ゆう)は「書は心の画なり」と述べました。清末の学者・劉熙載(りゅう・きさい)は、「賢哲之書温醇,駿雄之書沈毅,畸士之書歴落,才子之書秀穎(賢人の書が穏やかでまじりがなく、優れた人の書は動じるところがなく、奇人の書は細部にこだわらず、才人の書は抜きんでて優れている)」(『芸概・書概』より)と、身分の違う人の書道の特徴をまとめました。歴史上に名を残す多くの書道家たちはまさにその通り、忠節にして清廉な品格のある方ばかりで、彼らの道徳と気骨は、彼らの作品とともに、永く後世に名をとどめ、褒めたたえられます。

気高い品格を持つ王羲之は、書も美しく清らかで優雅に見えます。生涯忠義を貫く虞世南と柳公権の書も、素朴で厳正な雰囲気を醸し出します。大自然に自身の心情を託す蘇軾は、書も豪放磊落で、意志が強く正直で世におもねらない顔真卿の書も、力強く気魄に満ち、大らかで強い精神が感じられます。それは故意的にできることではなく、自然にあらわになる高尚な品格で、まさに「字は人なり」です。

徳の高い書道家は、作品も世の人に愛されています。例えば、正直で忠義と気骨を守る愛国の名将岳飛、文天祥と林則徐は、その書道作品も別段の保護をされます。一方、書道家の道徳がすたると、その作品がどれだけ優秀でも、書道家の道徳への補いにはなれないため、冷遇されるのも当然です。実は秦檜も書道を研究したことがありますが、売国奴の行いのせいで、その書道作品も大事にされることがありません。このように、節操を守らない人間は、優れた腕を持っていても、その書道作品は世に出ることがなく、当人とともに消えてしまいます。

中国伝統文化では、道徳を基準にして美を評価します。詩、文、書道と絵画は、いずれも作者の「善」と「悪」、「正」と「邪」への態度を示します。良質で気風正しい作品を見るとき、人々は美を感じ取り、作品の内容と作者の道徳の感化を受け取ります。

古来、書の優劣は、人の品格の優劣に関わります。そのため、学問がないと書道を語る資格がないし、まして品格がないと書道を語るのはもってのほかです。これが書道の理であり、書道を勉強するには、まず身を処し、品格を保つことが大前提です。詩人の陸游は「汝、果たして詩を学ばんと欲せば、工夫は詩の外に在り(もしあなたは本当に詩を勉強したいのなら、詩以外のものに工夫しよう)」と論じたのもその通り、書と詩の工夫は品格にあります。

そのため、書道芸術の鑑賞は、点画(てんかく、漢字を構成する点と画)と章法(しょうほう、書道作品の全体構成)の精巧さではなく、書人の心の広さ、気質と道徳を注目します。芸術における腕や技術は、正しく使用されるために存在しますので、心を修め、徳を重んじ、思想を浄化し昇華させてこそ、その作品がはじめて良質な作品になり、観者にいい影響を与えます。

(文・智真/翻訳・常夏)

(看中国より転載)