<心の琴線> 気性の激しかった父が生まれ変わった 

中国には、「山河は改造しやすいが、人の本性は改め難い」(江山易改、本性難移)という言葉がある。しかし、ふとしたことがきっかけで人生観が変わり、よい人間に生まれ変わることもある。

 恐怖に満ちていた家

 私の父は気性の激しい人だった。家の雰囲気がいつも恐怖に満ちていたのを今でも覚えている。父がわけもなく怒鳴るのではないか、母を殴った後、私たち兄弟にも手を出すのではないかと私は恐れ、いつもびくびくしていた。

 私が13歳のころ、母は置き手紙を残して家を出てしまった。それから3年間、母の代わりに父に殴られるのは私だった。涙を流しながら外へ出た私は、いつも月を眺めながら、母も同じように月を見ていてほしいと願っていた。

 よく殴られて泣き叫んだため、私は時々、顔を腫らして学校に行った。中国東北部の冬は、とても寒い。この3年間、背が伸びた私は、小さくなった防寒服、つま先が当たって痛くなった靴…心の苦痛を相談できる人もなく、私の性格は孤独で偏屈になり、内向的で全身がむくんでいた。恐怖と憎しみに包まれていた私を、知人や近所の人たちは避けるようになった。兄弟たちも私を敬遠した。

 心から父の孤独と痛みを感じた

 3年後、母は家に戻ってきた。結婚した兄は家を残して出稼ぎに行き、実家に帰ってきても、父とは口をきかなかった。

 1995年、私は北京へ行き、2年もの間、実家へは戻らなかった。1998年9月のある日、ベッドに横たわり、一人でテレビを見る孤独な父の姿が頭に浮かんできた。暗闇の中で突然、父に対して、これまでになかった同情の心が生まれ、父に会いたくなった。

 父の好物をいっぱい買って、私は実家へ駆けつけた。母が出かけたため、父と2人きりになった。いつも通り態度が悪く、私を罵りながら食事をする父に、私の心は少しも揺れず、ただ父に家族の温かさを感じさせたかった。同情の心でいっぱいになった。私は黙々と食器を片付けてから、お茶を注ぎ、微笑みながら父に湯飲みを渡した。「お父さん、お茶どうぞ」。私はもう何年も、このように父に話しかけていなかった。父の目線は私を避け、罵声も消え、部屋中が静まり返った。

 徐々に笑顔が浮かんできた父

 1998年、私は北京に戻った後、法輪功を学び始めた。法輪功を修煉してから、私は人生の因縁関係を知り、心性に更なる変化が起きた。毎回、実家に帰ると、自分が他人を思いやり、他人を寛容することができるようになったと気づいた。家の雰囲気も変わってきた。兄と姉は父に反感を持っていたが、徐々に父に対して反抗しなくなり、父は笑顔を浮かべたり、冗談を言ったりするようになった。

 涙を流した父

 1999年7月20日、中国共産党は法輪功への弾圧を始めた。私は北京・府右街へ陳情に行ったが、故郷の瀋陽に送還されたため、実家に帰った。父はテレビを見ていたが、部屋に入った私を見て、「多くの法輪功を信じる人が自殺したって、本当か?」と聞いた。私は、「お父さん、テレビを信じるの。私が法輪功を修煉する前と、その後の変化を目にしたでしょう。法輪功が良いか悪いか、もう分かっているでしょう」 というと、父は黙った。

 その後、私は2度も労動教養所に拘束されたが、家族から「法輪功をやめろ」と言われたことは一度もなく、ただ私の安全を心配してくれた。

 2回目に労動教養所へ収容されたとき、私は胸骨を骨折したため、歩くのが大変だった。父は私に会いに来たが、1時間後にやっと面会の許可が出た。私は落ち着いて父を見つめた。父は涙を流しながら、警官に堂々と言った。「殺人、放火などの事件には無関心で、何の悪事も働いていない私の娘を、ここに閉じ込めて迫害するのか」。 父の目は赤く腫れて、老けたように見えた。父は一睡もせずに列車に乗り、北京に着いた後は方向を間違えたりしてバスを乗り換え、ようやくたどり着いたという。

 兄と姉の婚礼さえも参加しなかった父が、わざわざ私に会いに北京まで駆けつけてくれたのだ。

 あれは父?

 父が会いに来てくれてから2カ月後、私は「労働再教育」が満期になり、故郷の瀋陽に戻った。

 家に入ると、喜ぶ母の後ろに、肌に赤みがさして、以前より太った、20歳も若く見える父がいた。

 父は、労動教養所から戻った後、自ら法輪功の教えが書かれている『転法輪』を読んだという。タバコをやめるという内容を読んだとき、タバコをやめようという一念が生じた。そして数日後、父は生まれ変わった。40年余り続いた1日3箱という喫煙の習慣をすっぱりと止め、父はタバコを吸うことができなくなり、元気いっぱいに若返ったのである。
 

 (翻訳編集・李頁)