【古典の味わい】春夜宴桃李園序(春夜、桃李園に宴するの序) 李白

 夫天地者万物逆旅、光陰者百代之過客。而浮生若夢、為歓幾何。古人秉燭夜遊、良有以也。況陽春召我以煙景、大塊仮我以文章。会桃李之芳園、序天倫之楽事。群季俊秀、皆為恵連、吾人詠歌、独慚康楽。幽賞未已、高談転清。開瓊筵以坐華、飛羽觴而酔月。不有佳作、何伸雅懐。如詩不成、罰依金谷酒数。

 夫(そ)れ天地は万物の逆旅(げきりょ)にして、光陰は百代の過客(かかく)なり。而(しか)して浮生(ふせい)は夢の若(ごと)し、歓(かん)を為す幾何(いくばく)ぞ。古人(こじん)燭(しょく)を秉(と)りて夜遊ぶ、良(まこと)に以(ゆえ)有るなり。況(いわ)んや陽春(ようしゅん)我を召(まね)くに煙景(えんけい)を以てし、大塊(たいかい)我に仮(か)すに文章を以てするをや。桃李(とうり)の芳園(ほうえん)に会して、天倫(てんりん)の楽事(らくじ)を序す。群季(ぐんき)の俊秀(しゅんしゅう)は、皆、恵連(けいれん)たり、吾人(ごじん)の詠歌(えいか)は、独(ひと)り康楽(こうらく)に慚(は)づ。幽賞(ゆうしょう)未(いま)だ已(や)まず、高談(こうだん)転(うた)た清し。瓊筵(けいえん)を開き以て華(はな)に坐し、羽觴(うしょう)を飛ばして月に酔ふ。佳作(かさく)有らずんば、何ぞ雅懐(がかい)を伸べん。如(も)し詩成らずんば、罰(ばつ)は金谷(きんこく)の酒数(しゅすう)に依らん。

 さて、天地は万物を宿す旅館のようなもので、月日は、いわば永遠の旅人である。人生は夢のようにはかないものであるから(その間に)どれほどの楽しみを味わえるのだろう。だから、昔の人が、燭をともして夜まで遊んだというのも、まことに理由があることと言える。ましてや、このうららかな春のすばらしさはどうだ。私を誘い招くのに、美しく霞がかった景色を用い、大地の神は、さあこれを詠えとばかり、私に詩文の才を与えてきたではないか。

 この春の夜、桃李の花が咲き、その芳香がただよう庭園に、こうして親族が集い、楽しい宴を催すに至った。若き俊英の諸君は(文才があるので)みな謝恵連のようにすぐれた詩を作るだろう。私(李白)の詠う詩歌は、文才乏しいがために、康楽(謝霊運)に及びもしない。春の興趣を静かに賞することは、いつまでも尽きず、世俗を超越した語らいは、ますます清らかになっていく。美しい敷物をのべて、花のなかに座し、酒杯をやりとりしながら、月を眺めて酔う。

 さあ、ご臨席の諸士よ。こうしたなかで見事な詩文を作らなければ、どうしてこの風雅の心を述べられよう。もし良い詩ができなかったら、あの金谷園の故事にならって、罰杯を三つ、飲ませましょうぞ。(大意、以上)

 李白(701~762)のこの文章が、なぜ日本でも有名かというと、もちろん松尾芭蕉『おくの細道』の冒頭に「月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり」があるからですね。ほかにも、例えば井原西鶴『日本永代蔵』には「されば天地は万物の逆旅、光陰は百代の過客、浮世は夢幻という」と、ほとんどそのまま引用されています。

 ただ、基本テーマ「人生は短い」に続く李白の原文の趣旨が「だからこそ、大いに飲んで、楽しもう」であるのに対して、芭蕉は「だからこそ、旅に出よう」西鶴は「自分が死んだら、金銭は役に立たない。金を家に遺しても、子孫のためにはならない」と、だいぶ中国と日本で異なっている点が興味深いです。

 李白の名文にケチをつけるのは憚られますが、実のところ、これに限っては文学作品というほどの価値はないですね。宴席にいる大勢の人の前で、その場を盛り上げるために李白が詠った、いわば幇間(ほうかん)芸の一種です。そのため、あちこちに李白から観客への「よいしょ」が見られます。一方で「私の詩文は下手ですから」と気をつかって卑下するなど、豪放磊落な李白らしくないところも、いくらか覗かれます。

 ちなみに文中の「天倫」は自然に定まっていた人間関係のことで、ここでは親族や同族を指しますが、もちろん、宴会に集った人々が、本当に李白の親族(または主催者の親族)なのではありません。つまりここは、そうではないことを知りながら「親族」にしているのです。李白も、ずいぶん媚びることがあるのだなと思うしかないですが、ただ、各処へ招かれ、詩文の朗誦という宴会芸を披露しながら人間関係を築いていくのも、李白の世渡り術として欠かせない部分であったことは許容していいでしょう。

 私は、その詩で月にも飛んでいくような李白が好きです。一方で、まことに俗っぽい、どこかで人の飯を喰っていた生身の李白にも親しみを感じます。なにしろ官吏にもなれず、ろくに職業にも就かず、その詩文と人間関係で超然と生きていた李白です。あの大酒の費用をどこから得たのか気になるところですが「李白には李白の生きる術があった」ということは想像してよいと思います。

(諭)