南宋臨安の城門。左下に象を連れた人々が見える。(インターネットより)
古人の知恵から学ぶ

南宋王朝の繁栄と助け合いの精神

 南宋時代に書かれた随筆「夢梁録」によると、当時の慈善事業は高い水準だったということが分かります。南宋時代には「慈幼局」が開かれ、家庭が貧しい子供や、母親を亡くした乳幼児、捨て子などを政府が保護し、乳母を雇い衣食の世話をしました。子供たちが成人すると、好きな職業につくことができ、政府も彼らに返済を強制することはありませんでした。民間人がそれらの子供を引き取るときは政府から補助金が出て、一か月に銭一貫、米三斗が支給されました。米三斗は約26キログラムにあたり、銭一貫は一両の銀と同等の価値があります。つまり、一年で十二両の銀がもらえたのです。

 明代に書かれた「売油郎独占花魁」という小説には、南宋の庶民の生活が描かれています。その主人公である油売りの秦重(売油郎)は、灯油の運び屋をしていましたが、一年の収入は銀十三両でした。つまり、政府からの補助金は、肉体労働者の一年分の稼ぎに近い額だったのです。油売りの秦重は銀十三両でも不自由なく暮らせたのですから、当時の社会福祉の水準の高さが伺えます。

 慈幼局はふつう施薬局の隣に置かれました。施薬局は政府による慈善事業の一つとして、政府が毎年十万両の銀を出資していました。施薬局は軍の監督下に置かれ、その医療水準は高かったといわれています。『宋史』によると、当時の臨安(りんあん)は南宋の首都であり、「世帯数39万1259戸、人口124万760人」という世界有数の大都市でした。

 軍人への待遇も非常に手厚いものでした。彼らには政府から銭と米が支給され、春と冬には衣服の支給もありました。任務を行う時には「口券」と呼ばれる一種の手当てが支給され、任務を果たした時には賞金がもらえました。新兵が入隊すると「関会」と呼ばれる手形や衣服をもらい、軍人の家族は毎月部隊から食糧の配給を受けました。兵士が戦いで勝てばボーナスが支給され、戦死すると家族は補助金をもらいました。

 政府の慈善機構のみならず民間の慈善団体やボランティアのような活動をする者もいました。銭塘県と仁和県には十二の「漏澤園」という共同墓地があり、行き倒れた人や親族がいないため葬式を行えない人はそこに埋葬されました。宋王朝の政府が徳のある二人の僧侶にこのことを任せました。

 

杭州南山路 (Kware Ji/Flickr)

 人なつこくて情に厚い杭州の人々