【党文化の解体】第4章(2)

1.悪党の思想と思考回路、悪党組織特有の言語
 1)今日中国人民の思想を統制する者

 今日、中国人民は一体何を考えているのかを見てみたい。

 「共産党がなければ、中国はどうなるのか?」、「中国には民主主義はできない、やればすぐ国が乱れる」、「共産党の過去を追及しないで、すべてを前向きに」、「共産党に時間を与えよう、民主主義がやってくるのは時間の問題だ」、「人権は即ち衣食の権利であり、満足に飯が食えないのに人権の何を語るのか」、「宗教と信仰が何だ、神様がどこにいる、迷信を打ち破って科学を尊重せよ」、「悪事はみんな個人の素質の問題で、党自体はいいものだ」、「こんなに大きな国なのだ、誰に替わっても何が変わるというのだ」、「誰かが共産党に反対していれば、それは政治に介入していることであり、他人に利用されているのだ」、「腕では太腿にかなわない、何を騒ぐのだ」、「安定が何よりだ」、「経済水準を引き上げてからの話だ」等々、中国人民はこれらの観点は皆自己の独自の理性的思考であり、中共による一面的洗脳によるものではないと思っている。

 中国人民は本当に独立し理性的に思考しているのであろうか。実はそうではない。

 考えてみれば、上記の観点は一つ残らず共産党がその統制を維持するため、苦心惨憺に宣伝・洗脳し、中国人民に受け入れさせたい考えばかりである。

 ただ、「造反有理」が「(党の)安定は何よりだ」に変わっただけである。

 中国人民はすでに盲目的崇拝から脱皮ができ、または共産党による思想的統制に対して免疫力ができたと思い込んでいるときこそ、党文化は正にしっかりと中国人民の思惟形式を掌握しているのである。

 つい30年前までは、中国人民の思想は多くの場合において党により直接洗脳されていたのだが、今日の中国人民は長年に渡って虐げられ倒錯した後、もう盲目的でなく自らが独立して理性的に思考できると思いこんでいる。

 2)洗脳される側から自ら思考して罵り、共産党を擁護

 不幸なことに、この思考過程においては、思考の理論的体系は依然として共産党から植えつけられたものであると言わざるを得ない。思考のための情報源は依然として共産党によって統制されている。所謂「独立」とは、ただ党文化の枠の中での「独立」であり、「理性」とは、党文化の理論的体系の中での「理性」である。明らかに、このような思考から出された結果は、当然共産党が期待しているものとなる。

 なぜ、中国人民は独立して思考しようと思ってもできないのか。それは、以下のいくつかの理由によるものである。

 (1)「独立思考」の中に存在する党の母性

 「党は一切であり、党は母である」、「命は党が授けたものだ」、「食事は党が与えた」、この種の「母子のような感情」は数十年来すでに人の心の中に入り込んだ。現在は、過去のように「党よ、親愛なる母よ」などのように露骨に歌わなくなったが、党が存在しないことはなく、高みにあってそれより上のものはなく、中国人民の衣食を統制しているために、中国人民は依然として「国家は党のもの」、「飯碗は党が与える」、「共産党は中華民族の唯一の選択だ」と思いこみ、党、国家、民族といった概念が混在し、生活環境のすべてがまるで党によって作り上げられ、与えられ、維持されているかのように思わせられている。

 これは中国の問題を考えるときの限界線となる。すなわち、共産党というものを飛び越えることはできず、党がない日々をどう過ごせばいいのか想像もつかないというものだ。

 外部の人はこの種の心理を理解するのに相当苦労する。子供が大きくなったら、親から離れていくのが当然のことであるが、党文化の閉鎖的で高圧的な環境の下では、人は老いて行くが思想は大人になれないのである。

 (2)「独立思考」の理論的基礎

 中国人民が物事を考える理論的基礎は依然として無神論、弁証法唯物論主義、歴史唯物論主義、進化論、闘争の哲学と所謂「科学社会主義」であり、党以外に「神や天」の存在を信じさせないようにしている。

 中国人民が物事を考えるときに使用する基本的語彙や言葉の体系は、依然として党文化の内包が植えつけられており、そのすべてが中共組織特有の言葉であり、中国人民は党文化という枠の中で考えをめぐらせるしかない。「もし共産党がなければ」という限界線を越えて物事を考えると、訳のわからない恐怖感にさえとらわれるほどだ。

 同時に政治運動は依然として後が絶えず、例えばここ20年余りの自由化反対、「6・4天安門事件」鎮圧と法輪功への迫害、このような全国的な政治運動をやるたびに、党文化理論は全面的に強化復習されている。

 (3)「情報の不完全性」が思考過程に及ぼす影響

 中国人民が物事を考えるときの情報源は依然として共産党の厳密な統制を受けおり、党に不利な情報でさえも党による細心の操作の下で、党の天下を維持するための材料へと転じている。

 「兼聴則明」(広く意見を聞けば正確な判断が下せる)と言う諺があるように、人は二つの相反する観点を得て、どちらの観点にも道理があると認識し、その独立した理性的思考を経てから判断を下さなければならない。

 しかし、中共の鶴の一声や情報封鎖、検閲により情報に深刻な不完全性がもたらされ、実際に中国人民が正確な判断を下す必要条件が遮断されている。

 いくら聡明な人に独立思考の願望があっても、「無米之炊(米がないのに飯を炊く、情況が困難で応対に困る)」から逃げ出せず、このような思考は真の意味の「独立理性」の思考とは言えないのである。

 (4)中国人民の思考をうやむやに終わらせる「強権論」

 「共産党は強権だ、党は残酷だ、党と対抗したらきっといい結末はない」

 これは中国人民がここ数十年の大衆運動の中から得た共通認識である。

 共産党に恨みを持つ人であっても、強権政治を危惧するあまり、物事を考える心理上においてなかなか共産党を乗り越えられなく、「共産党をどうこうすることはできない」と思ってしまい、逆に中共の世を見とおしたかのような心理状態で中共にコバンザメのように追随し、ついでに「共産党がなければ、中国はどうなるのか」と憤激しているのである。

 中国人民が普遍的に思っている、言論が緩められた象徴は、密かに共産党を罵ることができるようになったことだが、実はこれはみんな党文化の枠の中での悪口で、悪口の中で党を理解し、最終的に現状を維持し、形を変えて共産党を擁護しているのである。

 中国人民の独立思考に与える影響はこのほかにもまだたくさんある。

 この種の「独立思考」をした後でも、依然として党と一致する現象は、過去の直接的な洗脳より更なる危険性を持っている。

 一旦それらの考え方が本当に自分の独立した「思想」であると思ってしまえば、これらの観点をさらに信じるようになり、客観上で中国人民がより自主的に党と一致したことになり、自然に中共が人民を統制するための便益を与えてしまうこととなる。

 過去が受動的に作られた過程であるとすると、今日は党文化が発酵・成熟し、中国人民が自ら自律し党の政策に呼応し理解しようとする過程であるといえよう。

 中国人民は、過去は受動的に洗脳されていたが、今日では主動的に自立して党の政策を理解して協調し、陰で悪口をいいながらも党を擁護している。これは正に党が長期にわたって人民の思想を改造した結果にほかならない。

 (続く)