誰に皇位を継承するのか?

太祖夢枕に立つ

南宋が成立して間もない頃、高宗趙構の一人息子が若くして亡くなってしまい、また彼の属していた太宗家系の多くも「靖康の変」で金国に捕らえられてしまったのでした。そのため彼は、「王位を誰に継承するか」という問題に悩まされることになったのです。

当時、宗国と金国の民衆の間では、「金大宗は宗太祖に似ている」「宋太祖の生まれ変わりだ」「王位奪還のために宋を攻めている」という噂が流れていました。高宗の生母である韋太后は、宋国の衰えは太祖の霊によるものだと考えており、太祖、大宗間の確執を解消するために、趙構に王位を太祖系?に返還するよう求めました。(註:太祖趙匡胤は弟の太宗趙匡義に王位を譲りましたが、大宗は自分の子孫に王位を譲ったのでした)。

『異跡略』に、かつて宋太祖が夢の中で高宗に王位を返還するよう求めことが記されています。また、太祖は夢の中で高宗にこう語りました。「あなたの祖先は長い間私の王座を占領し、そして宋の国はこのように滅びてしまった。王座を返還するべきだ」。一方、宋代の史記には宋太祖が高宗の伯母である孟皇后に夢で伝えたことが記されています。やがて高宗は王位を太祖家系に返還することに決めたのでした。

猫の悪戯

紹興2年(1332年)、高宗は宗族の事務を担当している趙令畤に後継ぎを探してくるよう命じました。当時、太祖の7代目の子孫(名に「伯」の輩行字が付く世代)は1645人おり、度重なる選定の結果、最終的に2人の子供が候補として選ばれました。彼らは当時まだ幼く、1人は少しぽっちゃりした子で、もう1人は痩せた男の子でした。2人は高宗の前に差し出され、最終的な判断は高宗に委ねられました。

ぽっちゃりした方の子を気に入った高宗は、細い方の子に銀貨300両を渡して、地元へ帰るよう命じました。細い方の子が帰ろうとした時、高宗は突如「よく見えなかった」と、もう一度2人呼び止め、腰に手を当て軍隊さながらの姿勢で並ばせました。ちょうどその時一匹の猫が2人の子供の間を潜り抜けました。細い方の子は微動だにせず真っ直ぐ立ったままでしたが、ぽっちゃりした方の子はあろうことかその猫を蹴飛ばしてしまったのです。それを見た高宗は顔をしかめ、「社会の重要な仕事を引き受けるのに、どうしてそんな軽率なことができるのか」と考えを改め、細い方の子を残すことに決めたのでした。

痩せた方の子は、趙伯琮という当時6歳の少年でした。それから、後宮に送られ張婕妤に育てられました。

最終審査

趙伯琮はその後、趙瑗という名を与えられ、20年以上も宮中に滞在しましたが、正式な後継としての地位を確立することはありませんでした。それはなぜかというと、彼が宮殿にやってきて間もないの頃、高宗はまた別の太祖の7代目の子孫を後継候補として宮殿に呼び、呉才人(4等級中正四品の妃嬪)に撫育させていたのです。彼の名は趙伯玖と言い、当時7歳でした。後に趙璩を賜名し、こうして宮殿には2人の後継候補が存在することになったのです。高宗の母である韋太后は趙璩を寵愛していました。また、趙瑗は当時の南宋の宰相であった秦檜の権力を振りかざす様子をよく思っておらず、面白くない秦檜は仕返しとして様々な嫌がらせを趙瑗にしていました。

韋太后が亡くなると、高宗はようやく誰からの指図も受けずに自身の判断で後継ぎを決められるようになりました。趙瑗、趙璩2人とも才色兼備で、高宗もすぐには決められずにいました。ただ彼は、品行方正な男でこそ大きな仕事を任せられるのであって、欲望にまみれた男が王国を失った例が歴史上にたくさんあることを深く理解していたので、思慮を重ね、2人に最後の審査の場を設けることにしたのでした。

高宗は趙瑗と趙璩2人にそれぞれ10名の美しい女官を与えました。そしてある程度期間を置いた後、20人を集めました。調査した結果、趙瑗に与えた10名は依然として手入らずのままでしたが、趙璩に与えた10名はすでに非処女であったことがわかりました。そこでようやく高宗の気持ちが固まりました。

紹興32年(1162年)5月、趙瑗は高宗より皇太子に任命され、名を趙昚に改めました。そして翌月に高宗は退位し、趙昚が即位しました。それが南宋の第2代皇帝、宋孝宗です。

宋高宗のことを愚昧な君主だと言う人がいますが、後継者選びにおいては非常に賢明でした。即位した孝宗皇帝は、その期待に応えて、数々の功績を残しました。例えば、秦檜の策謀で牢屋に入れられていた岳飛の冤罪を晴らす、軍を操練する、冗官を排除する、勧課農桑、文化の発展などが挙げられます。同時に、勤勉で質素であり、親孝行でもありました。高宗皇帝が亡くなったとき、彼は悲しみの余り2日間食事をせず、3年間喪に服すと言って、喪の期間中は精進料理しか食べなかったそうです。

孝宗が即位していた期間、南宋では平和で豊かな世の中が実現し、「乾淳の治」(乾・淳とは当時の元号「乾道」と「淳熙」を指します)と呼ばれていました。孝宗皇帝は、南宋時代で最も成功した皇帝であると言われています。

趙昚の王座への道は、曲がりくねった道のりではあったものの、神の眷顧と彼の優れた教養によるものであり、まさしく中国の昔から伝わる「人事を尽くして天命を待つ」という言葉を体現しています。

 

(翻訳:牧村光莉)