【古典の味わい】貞観政要 10

高句麗への遠征軍が、激戦を終えて帰還してきた。

戻ってきた大軍が柳城(河北省熱河)へ宿営したとき、太宗は詔(みことのり)を発して、戦死した将兵の遺骸を集め、肉料理をふんだんに供えた祭壇を設けて、戦没者を慰霊する祭祀を行わせた。太宗も、おん自ら祭壇の前で哭し、死者への哀悼を尽くした。部下の軍人たちで、涙を流さないものはなかった。

祭祀の様子を目にした兵士たちは、郷里に帰ってから、戦死者の父母に細やかに語った。父母は「戦死した我が子のために、天子様があつく哭礼を行ってくださった。子が死んでも少しも恨むところはありません」と言った。

太宗が軍を率いて遼東へ攻め入り、白巌城を攻略したとき、右衛大将軍の李思摩(りしま)が流れ矢にあたった。すると太宗は、李思摩の傷に口をつけて、その血を吸った。

王朝の出自は、いわゆる漢民族ではなく、中原(ちゅうげん)から見れば異民族にあたる北方系の鮮卑(せんぴ)という遊牧騎馬民族にあります。

上の文章にでてくる李思摩も、漢人の将軍ではなく、もとは突厥(とっけつ)という騎馬民族の戦士でした。始めは唐に敵対していたのですが、捕虜となった後、太宗によってその武勇が認められ、特に李姓を下賜されて、唐軍の一将になった人物です。

突厥はテュルク、つまりトルコ系の民族で、かつて広大な中央アジアに勢力を誇った人々ですから、大胆にいえば、今日のウイグル人の祖先(の一部)に相当するかもしれません。

その李思摩の戦傷の血を、太宗が口で吸ったという、まことに象徴的な場面ですが、その驚愕的な行為が後世に与えた影響は絶大で、教養書として『貞観政要』が読まれた日本でもこの話はよく知られています。

太宗は、その統治のうえで伝統文化を振興させ、学問によって自身を向上させる努力を惜しまない人物でしたが、その基本はやはり武人だったのです。

戦場を経験した身であるからこそ、万民の幸せのために、天下を平穏に治めねばならない。それこそが皇帝である自身の天命であり、究極的な使命としていたのでしょう。傷を負った李思摩に対する太宗のふるまいは、周囲に見せるための演技ではなく、そうした使命感のなかから生まれた「真実」であったに違いありません。

(聡)