第4話:礼儀を習うことの重要性とは【子どもが人格者に育つ教え「三字経」】

原文

玉不琢、不成器、人不學、不知義。

為人子、方少時、親師友、習禮儀。

訳文

玉不琢 玉(たま)琢(みが)かざれば
不成器 器(き)と成(な)らず
人不學 人(ひと)学(まな)ばざれば
不知義 義(ぎ)を知(し)らず
為人子 人(ひと)の子(こ)と為(な)りては
方少時 少(わか)き時(とき)に方(あた)りて
親師友 師友(しゆう)に親(した)しみ
習禮儀 礼儀(れいぎ)を習(なら)え

解釈

天然の美質を持つ玉石も、磨かなければ、役に立つ器物には成り得ません。それは人間も同じで、生まれながらに優れた素質を持っていても、努力して学ばなければ、人としての道理がわからないものです。

子供の頃には、良い先生や友達と親しくし、教えやアドバイスを素直に受け入れ、人との接し方、物事への対処の仕方などの礼儀を身につけておくべきです。

筆者所感

今回ご紹介する八句は全体を通して平易な言葉で描かれており、比較的理解しやすいと思います。始めの四句は、上文を受け下文へと繋がる形式で表されており、且つ子供たちへの直接的なアドバイスにもなっています。前回までの三話で語られている、教育は道徳教育の上に成り立つものであるということ、そして親や教師は教育を重要視するべきであるという教訓を踏まえた上で、今話では子供たちへの具体的な指導について描かれています。玉石が職人の手によって丁寧に彫られ、磨かれなければ使い物にならないのと同じように、人の成長には、丁寧な養育と指導が必要不可欠であり、さもなければ「人不學、不知義」、役に立つ人材にはなれないのです。その核心となるのは、変わらず子供たちに「学ぶこと」と「教わること」の大切さを教えることであり、学ぶことは人としての正しい道理を知るため、つまり「義」理を知ることが学ぶことの究極の目的であるとしています。

伝統的な学問において、その核心は道理を理解することにあり、どれだけ多くの知識や見聞、技術を持っているか、それを人に自慢できるかではありません。『三字経』では、冒頭でこの点を何度も強調してきましたが、この点を明確にできなければ、学ぶ意味を失い、心の狭い捻くれた文人になってしまい、せっかく学んだ知識や持っている才能や能力も、社会を害する武器になってしまうかもしれません。だからこそ、伝統的な学問では「仁、義」の二字を最も重要であると位置付けているのです。

「仁、義、礼」これらは常に中国における国学の中心であり、儒教の中心であり、伝統的な中国の人々の行動の中心でありました。ここでは、「義」の一文字で道徳教育の根本を表しています。中でも孔子は「仁」と「義」を強調しており、「礼」は「仁、義」の外面的な表現であり、またその具体的な規範でもあります。具体的な礼儀や作法は国によって異なりますが、いずれも人への敬意、尊厳、感謝、挨拶、気遣いなどの人間的な優しさを示すものです。

例えば、道で人に遭遇した時に、その相手が自分の知っている人だった場合、もし相手が自分を無視したり、目をそらしたりすると、きっと不快に感じ、無視されたと思うので、当然、感情が傷つき、怒りを感じることでしょう。一方で、相手が挨拶をしたり、声をかけてくれると、大切にされていると感じることができます。そのため、伝統的な礼儀作法を重んじる日本では、見知らぬ人でも出会った縁を大切にし、挨拶を交わします。挨拶の形式は、場面や相手、またその人との関係性などによって異なりますが、その根底は人と人との善意の表れです。

よって、本当の学習とは他人に優しく接することができるようになるために、世の中の正しい道理を知ることです。「仁、義」の重要性、学習の意義を理解したら、それを実現するための第一歩として、まずは後半四句「為人子、方少時、親師友、習禮儀」を実践することが必要となります。幼い頃から良き教師について、良き友人と関わることは非常に大切であり、そこから人と接する上での礼儀作法を学び、人としての基礎を築き、優しさを合理的に言動に表現できるようにしなければなりません。さもなければ、知らずのうちに間違った物言いをしてしまい相手を傷つけ、場合によっては対立や誤解、争いが生じ、人生が苦しくなってしまうのです。

つまり、幼い頃から良き教師や友人のそばで礼儀作法を学ぶことが学習の第一歩であり、それらを身につけてこそ日常生活や人との付き合いの中で、義理や人情を行動で示せるというものです。そうでないと、親切にしたいと思っても、具体的な行動の仕方がわからず、気付かぬうちに誤解を与えたり、相手を傷つけてしまいかねません。さらには、関係を悪化させてしまい、他人から批判されたり拒絶されたりすることもあります。これでは、他人にも自分にも全くメリットがありません。 若い頃から他人に礼儀正しく接する習慣を身につけておくことは、極めて重要であり、その後の人生にもプラスになります。反対に、一旦悪い習慣を覚えてしまったら、それを変えるのはとても難しいでしょう。

故事寓話「和氏の壁」
 

(PlutusART / PIXTA)

春秋時代の楚国に卞和(べんか)という人がいました。ある日、卞和は山で美しい玉の原石を見つけ、それが珍しい石であることを知っていた彼は、楚の厲王に献上しました。しかし、厲王が石を職人に鑑定させたところ、職人は「これはただの雑石です」と言いました。卞和が自分を騙そうとしているのだと思い、怒った厲王は卞和の左足を切断する刑に処しました。

厲王の死後、武王が政権を引き継ぎました。卞和は再び同じ石を持って武王に献上しました。武王も職人を呼んで鑑定させ、今度も同じようにただの雑石だと言われてしまいました。武王も卞和が自分を騙そうとしていると思い、卞和の右足を切り落としたのです。

時は流れ、武王が亡くなり、文王が即位しました。この時、卞和は玉石を抱きしめて、山の麓で苦しく泣いていました。三日三晩泣き続け、涙も枯れ、ついには目から血を流すまで泣き続けました。その知らせを聞いた文王は、人を遣わして卞和に尋ねました。「世の中には足を切り落とされた人がたくさんいるのに、なぜあなただけこんなに泣いているのか?」 卞和はこう答えました。「足切りの刑を受けたから泣いているのではありません。私が悲しいのは、この貴重な玉石の価値がわかってもらえない上に、忠節な人間なのに汚名を着せられたから泣いているのです」。それを聞いた文王は、試しに職人に玉石を丁寧に彫ってもらったところ、実に珍しい玉であることがわかりました。文王は卞和を称えるために、その名玉を「卞和の壁」と名付けたと言います。

この出来事が物語っているのは、たとえ希少な宝石であっても、人の手によって彫られなければ、人目につかず、何の役にも立たない石ころでしかないのです。親は卞和のように、子供の元々の玉石のような貴重な天性を丹念に守って、子供が良い先生についたり、良い友達を作ったりして、常に自分の性質を啓発し、善悪を見分け、後の人生で様々な影響を受ける中でも、自分の正しさを保つことができるようにし、最終的には美しい宝玉へと「彫って」あげなければいけません。愛する子のために、卞和から学ぶことが大切です。

つづく

——正見網『三字経』教材より改編

文・劉如/翻訳編集・牧村光莉