古代、人々の間では道徳的な高潔さが重要視されており、人々の心に響くような強い忠誠心や正義感を表した物語が数多く残っています。
世話になった主人に忠を尽くした阿寄
明の時代に、淳安県(現在の浙江省杭州市付近)でとても裕福だった徐氏という一家が住んでいました。その徐氏の家に、幼い頃から下働きとして働いていた阿寄という者がおり、家主は彼に親切に扱い、阿寄はとても感謝し、何十年も徐氏一家に仕えていました。
徐氏には3人の息子がいましたが、長男と次男は遊ぶことしか知らず、三男だけは一生懸命に働き、家族の面倒を見ていました。
数年後、三男が突然病気になり、妻と5人の幼い子供を残して亡くなってしまいました。さらに、長男と次男の2人が遺産を分割すると言い出し、家にあった唯一の馬と牛を奪い、年老いた母親の世話を三男の妻に押し付けました。
阿寄は、三男の妻子に良い生活が送れるように手助けしようと考え、「商売をしませんか」と三男の妻に声をかけました。何十年も徐氏一家に忠誠を誓ってきた彼を信頼した三男の妻は、資本金として宝石類を彼に渡しました。
調べてみると、山にはたくさんの漆の木があり、収穫した生漆を使い、家具に漆を塗ることができ、町でとても人気があったそうです。阿寄の商売は始めて1年後には数倍の収入になっていました。
20年の苦労の末、三男の妻は裕福になり、子供たちは皆、結婚しました。また、2人の息子のために家庭教師を招き、教養を身につけさせました。
阿寄は、徐氏一家のために功績を残したことを誇りにせず、自分の職務を全うしてきました。徐氏一家の人々を見かけると、たとえ幼い子供であっても敬礼したと言います。阿寄は最後、家財を徐氏一家に渡して亡くなりました。
冤罪で斬首された丁汝夔の子供を養育した孫明
丁汝夔は、明の嘉靖時代の政治家で、1550年、モンゴルの韃靼軍が都に迫ってきたとき、丁汝夔は「防衛十要」と「韃靼軍退却長策」を提出しましたが、裏切り者の厳嵩はそれを差し押さえ、丁汝夔に戦わないよう忠告しました。人々は丁汝夔を罪人とみなし、厳嵩もその責任を彼に押し付けたのです。嘉靖帝は、「侵攻を防げず、都を守れなかった」という理由で丁汝夔を斬首させ、丁汝夔は「厳嵩が私を惑わせた」と叫びながら処刑されました。
丁汝夔の執事、孫明は丁汝夔が殺害された後に、その次男の丁懋正と共に、はるか北の遼陽に送られました。しかし、その半年後、丁懋正も殺害されてしまいました。その直後、丁の妻は生後5か月の赤ん坊を残して亡くなりました。
赤ん坊を養うために、孫明は乳母を探したり、市場で牛や羊の乳を買って飲ませたりしました。また監察御史(役人を取り締まる監察官)が来ていると聞けば、必ず行って冤罪だと涙ながらに訴えていました。哀れに思った役人により、彼は罪を免れて都に帰ることができました。
遼東から首都までは長い道のりで、孫明は車を借りるお金もなく、歩くしかありませんでした。昼間は赤ん坊を背負い、途中で食べ物を乞い、自分は食べずに若い主人を飢えさせないようにし、夜は暖かく乾燥した場所で休みました。
歩いて1か月以上かけて都に戻ったところ、丁家の財産は親戚が山分けしていることを知り、当局に苦情を申し立てました。長い捜索の末、遺産の大半を回収できました。
孫明は、若い主人のために、献身的に尽くし、丁継之が成人した際に、孫明は丁家の全財産を彼に渡したということです。
(翻訳・呉 思楠)
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