「六宮の紛黛顔色もなし」昔の女性を彩った化粧品のお話

「回眸一笑百媚生、六宮粉黛無顔色(眸をめぐらして一笑すれば百媚を生じ、六宮の紛黛顔色も無し)」

唐代の有名な長編詩『長恨歌』のなかで白居易(はくきょい)は、玄宗皇帝の寵愛を一身に受けた楊貴妃(ようきひ)の美貌をこのように絶賛しています。後宮三千人と謳われた美女のなかに絶世の美女である楊貴妃が現れると、化粧を凝らした他の女性たちは圧倒されて、全く色を失うほどであったと言います。

ここでいう粉黛(ふんたい)は、そのまま後宮の女性たちを指しますが、その華やかさは如何ばかりであったでしょうか。

粉黛とは、顔に施す白い粉である 「粉(おしろい)」 と、眉を黒々と描く「黛(まゆずみ)」の2種類を指す一般的な化粧品です。「粉黛」は人を若く見せることができ、容姿の印象を変える効果が非常に高いので、その言葉は美人の代名詞にもなり、歴代で最も基本的な基礎化粧品となったわけです。

化粧品による「美容の文化」は、かなり古い時代から始まっています。中国の戦国時代といえば紀元前5世紀から秦の統一に至るまでの長い時代ですが、その頃の詩句を集めた『楚辞』に「粉白黛黒(粉は白く、黛は黒い)」という語句が見えます。

古代の人々も、顔を美しく見せることに力を入れていた様子が伺われますが、その力点は現代とあまり変わらず、顔の美白と眉の黒さにあったようです。

まず、化粧用パウダーから見てみましょう。

後漢の許慎(きょしん)が著した最古の漢字字典『説文解字』によると、「粉」の解説は「顔に広く塗るものである。分は米を砕く音を表す」とあります。

やはり初めは米の粉だったことが分かります。後に、米の粉に鉛(なまり)を加えたり、油脂を混ぜて顔面に伸ばしやすくしたものができました。そこから「脂粉」と呼んだり、また粉黛を「鉛黛」と言うこともありました。

先の『楚辞』にもあった「粉白黛黒」ですが、明るく白い顔を基本とし、そこに個人の美的表現である黛を引くことがなされました。だいぶ後世の書物である元代の『古今韻會挙要』には「染之為紅粉」、つまり「白い米の粉を赤く染めて、紅色の粉を作った」とあります。白いファンデーションの上に、うっすらと赤みを差すメイクアップがなされていたに違いありません。

また、顔に塗る化粧品ではないらしいのですが、唐代の詩人・韓偓の詩「晝寝」のなかにある「撲粉更添香體滑」、あるいは南宋の大詩人・陸游の詞に見られる「紅綿撲粉玉肌涼」という語句から想像すると、ここに出てくる女性は「香りの良い化粧粉を、顔だけでなく、全身に塗っていた」と言います。なんとも妖艶な美的世界になっています。

「黛」という字は、古くから「眉を黒墨で描いた」という意味で使われています。黛の本時は「黱」で、この「黱」および「黛」を『説文解字』で引くと、いずれも「眉を画く」と解されています。

そう言えば、黛の文字には「代」の部分が見えますね。つまり、本当の眉毛は剃り落とし「その代わりに、黛で眉を引いて描いた」という意味を表しているのです。
現代の女性と全く同じように、はるか古代の女性たちも、そうして美しさを求めていたとは、なんとも驚きではありませんか。

(文・容乃加/翻訳編集・鳥飼聡)