いつからか、年末年始の特別な感覚がないまま、新しい年を迎えてしまうようになっていた。
今年は、換気扇の掃除をしたかしら……。子供のころは、掃除片付けをして、洗濯をして、新しい服に着替えてお正月を迎える、年末はそういうものだと思っていたのだけれど。
50年前の12月30日のこと。卒業後の就職も内定し、久しぶりに高校時代の友人と会おうということになった。友人の母親が、12月30日に、人を呼ぶわけにはいかないから、外で食事をしなさいと食事代を出してくれた。私の母親は逆に、12月30日は、家の掃除をするべきで、出歩くのはおかしいと反対した。
でも押し切って、彼女と楽しいランチをした。とても美味しいハンバーグを食べたことをよく覚えている。と、その帰り、最寄りの駅の階段を下りている時、以前、友人の紹介で2度ほど食事をごちそうになったり、個展に招かれたことのある新進気鋭の画家にばったり出会った。せっかくだからお茶でもといわれて、喫茶店に入った。
これからどうするのと聞かれたので、一応○○会社に内定しているというと、彼は、せっかく若くて可能性に満ちた人生を、そんなありきたりの道を選んでいいのかと。今しかないんだよ、人生は。本当にやりたいことをしろと、強く挑むように何度もいわれた。
私のしたいことってなんだろう。会社に勤めてお金をためて、姉のように海外で働きたい。
そうだ、海外で働くことだ。と思った私は、その晩、両親を前にし、どうしても海外に出たいと頭を下げた。結局両親を説得することができ、私は、いとも簡単に内定を取り消し、イギリスの語学学校への留学を決めた。英国がとても好きになり、カレッジに進み、ずっと住むつもりだったが、諸事情のためいったん帰国し、そのまま再渡英することはなかった。
その後は、波瀾万丈の人生。この人生が良かったかどうかは、死ぬまでわからない。もう一つの人生を歩んでいるというのは、あり得ないと分かっているが、あの時家で掃除していたら、その画家にも出会わず、人生は違っていたかもしれないのだ。年末に遊ぶことをたしなめた親の教えは、正しかったのだろうか。
その後、画家の彼のことは、すっかり忘れていた。10年くらい前、朝日新聞に彼のことが掲載されていた。パリで個展を開いて盛況だったこと、著名な人達が応援していたこと、彼が自分の道を歩み続けてたことを知った。あの階段の出会いから30年以上がたっていた。
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