絵画のように見え、歌のように聞こえる–テレサ・テン【歴史の瞬間】(後編)

(続き)

1953年1月29日、台湾雲林県の鄧家に四番目の子供が生まれました。これは鄧家の最初の女の子です。女の子の父親は軍人で、1949年に国軍とともに台湾に移住しました。女の子が生後1か月になったとき、父親の学識ある友人が名前を考えました:「麗筠」ですが、家族や近所の人々は「筠」の音を「均」と聞き間違えました。後でこの発音に合わせ、君子の「君」に変更し、「鄧麗君(テレサ・テン)」という芸名が付けられました。

鄧麗君(テレサ・テン)は幼い頃から歌唱力があり歌の才能を示していました。

1964年、11歳のテレサ・テンは中国放送局が主催する黄梅調歌唱コンテストに出場し優勝しました。1967年、14歳で個人での初のアルバム「鳳陽花鼓」を発売しました。2年後、16歳で映画デビューし、その後、テレサ・テンの名声はますます高まりました。70年代、テレサ・テンは日本での活動も開始しました。

1979年、中米が国交を樹立したため、台湾の外交は一気に混乱しました。この影響を受け、テレサ・テンはパスポートの問題で、日本への入国を拒否されました。興味深いことに、この時期に彼女の歌は中国大陸で人気を博し始めました。

共産党はアメリカとロシアの対立を利用して台湾を包囲し、民主主義国家の歌声が大陸に広まりました。これにより、双方に利益が生じました。誰が神様は慈悲深いと言ったのでしょうか?

台湾に戻った後、テレサ・テンは頻繁に国軍の将兵を慰問する公演に参加しました。1980年10月、テレサ・テンはコンサート開催のため、アメリカから台湾に戻り、その時の公演の収益をすべて「自強愛国基金」に寄付しました。公演で司会者が「大陸で公演をするかどうか」と彼女に尋ねると、彼女は「もし私が大陸で歌うなら、その日は三民主義(民族主義・民生主義・民権主義)が大陸で実現する日になるでしょう」と答えました。

したがって、彼女は大陸で無数のファンがいるにもかかわらず、大陸での公演の機会はずっとありませんでした。

1989年、北京で民主化運動が勃発しました。テレサ・テンは香港のハッピーバレーで「民主の歌声で中華」のチャリティーコンサートに参加し、アンディ・ラウ、チョウ・ユンファ、マギー・チャン、アニタ・ムイなど多くの香港や台湾の有名人とともに「我的家在山的那一邊(わが家は山の向こう側にある)」を歌いました。
 

人生の真実・善・美しさ

テレサ・テンのポスター (林柏東/大紀元)

 

1995年になり、喘息に苦しむテレサ・テンは、タイのチェンマイで療養することになりました。5月8日の午後、テレサ・テンの喘息が再発しました。当時は仕事が終わる直前でしたが、ひどい交通渋滞で病院に到着するのが遅れ、一代の歌姫、テレサ・テンはこの世を去りました。わずか42歳でした。

私が子供の頃、古いカセットテープレコーダーでいつもテレサ・テンの歌「ワインとコーヒー」を聞いていたので、「ワインとコーヒー、私は一杯しか飲めない」と言っているのを知っていました。「阿飛はただのならず者だろう、ならず者がテレサ・テンに酒を飲ませ、しかも多量に飲ませたのだろう。それは私を毎日悩ませたものです。テレサ・テンの保護をどうすればいいのか分かりませんでした」

テレサ・テンの歌声は、中国本土の1950年代、1960年代、1970年代生まれの人々にとって、どんな音楽であり、どのように彼らの世代を震撼させたのでしょうか?現在の若者は、それを体験するのは非常に難しいのです。

現在の若者たちは、多くのアイドルを持ち、次から次へと新しいスターを追いかけ熱狂しています。今はスター達がたくさん輝いています。中国本土でかつてないほどの封鎖の中、テレサ・テンの歌はまさに砂漠の中の清泉であり、干ばつのように乾いた心の土地に降る春の雨のようです。

今、すべての方向から音を再現できる完璧なサラウンドサウンドがあり、身体を揺らす音波で体を震わせます。テレサ・テンの歌は、当初私たちを刺激することができました。しかしその震えは、魂の奥から来るものでした。

歴史におけるテレサ・テン:見るとは絵画であり、聞くとは歌です。 人生の領域の真・善・美がここに含まれています。

(完)

江峰