春秋戦国時代に、晋の君主・献公の妃が自分の息子を王位に就かせるために太子を死に追いやりました。第二の公子(君主の息子)である重耳(後の晋文公)も命の危険を感じ逃亡しました。逃亡生活は非常につらいもので、重耳は数々の屈辱を受け、少数の忠臣だけが彼に寄り添いました。その中の一人が介子推です。
ある日、一行は絶望的な状況に陥り、重耳が餓死しそうになったとき、介子推は自身の太ももの肉を割き、それを煮て食べさせました。これを知った重耳は感動し、「この恩は必ず返す」と言いましたが、介子推は「私への恩返しより、あなたに清廉な君主になってもらいたい」と断りました。
重耳が宮廷に戻り、文公として即位した後、多くの功臣を表彰しましたが、介子推だけを忘れてしまっていました。なぜ、文公は忘れてしまったのでしょうか。
介子推は、自分が天命に従って公子を支えただけであり、功績は自分ではなく天に帰すべきであり、君主を支えることが自身の責任と義務であると考えていたので、重耳が無事宮廷に戻った後、自らの責任を果たしたと思った介子推は重耳のもとを離れ、年老いた母とともに綿山という山に隠居し、二度姿を公に現れませんでした。そのため、即位した文公は介子推を忘れてしまっていたのです。
臣下に介子推について聞かれて、思い出した文公は非常に恥じ入り、使者を送りましたが、介子推はこれに応えませんでした。そこで、介子推を山から出すために山に放火する奇策を用いました。しかし、大火の後、山を捜索したところ、介子推は母とともに大きな柳の木に寄りかかって焼死していたのです。柳の太い根元に穴が掘ってあり、そこに一首の詩が残されていました。
「割肉奉君尽丹心,但愿主公常清明」
(我が肉を割いて君主に奉じて忠誠心を尽くす、ただ君主が常に清明でいることを願う)
「柳下作鬼終不見,強似伴君作諫臣」
(柳の下で幽霊となっては永遠に見えず、君主の傍で諫言する臣下でいるほうが遥かに良い)
「倘若主公心有我,憶我之時常自省」
(もし君主が私のことを心に留めていて、私を思い出すたびに常に自己反省することができれば)
「臣在九泉心無愧,勤政清明復清明」
(私は黄泉の国にいても心に恥じることなく、勤勉で賢明な治政が再び清明をもたらすことを願う)
このわずか数句の諫言に「清明」という言葉が三度も書かれていました。焼死しても封賞を求めず、ただ君主の清い初心を願い、死をもってその志を示し、君主に常に清く賢明でいることを勧めることが介子推の忠義を尽くす方法でした。
介子推が焼死した日こそ寒食節で、文公は悲しみのあまり、介子推が放火に遭った日、火を使わず、冷たい食事をするようすべての民に命じました。人々は介子推を尊敬し、この日に彼を弔いました。寒食節は中国全土に伝わりましたが、徐々に介子推を記念することと祖先を祭ることが融合し、寒食節に祖先を祭る風習が形成され、唐の時代には皇帝によって常礼として定められました。
宋の時代になって初めて、またさらに清明節と寒食節が融合し、介子推が君主に対して国を治める際の勤勉かつ賢明でいることを勧めるといった意図がより一段と強調されました。一方、寒食節における火を使わず、冷めた食事をとるといった習慣は、むしろただの形式的なものとなりました。
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