長年にわたってオランダ・ドレンテ州には50以上の巨石群が点在しており、一番重いものでは25トンもあります。オランダでは、巨人のベッドを意味する「Hunebedden(フーネベデン)」と呼ばれ、地元の人々は、この巨石は「巨人」によって運ばれ、積み上げられたと信じられています。しかし、山もなく岩もないオランダのどこから、この巨石が運ばれてきたのでしょうか?そして、誰がこのように築き上げたのでしょうか?
巨石群の起源
紀元前4000年頃、オランダ・ドレンテ州にやってきた狩猟民族は、この地の文化や生活様式に革命を起こしました。彼らは小麦の栽培、牛の飼育、厩舎の建設などを学び、この地域で最初の農民として定住したのです。
約500年後の紀元前3450年、彼らはあちこちに散らばった大きな石で巨石建造物を作り始めました。建造物の主流は支石墓で、巨石の壁で仕切られた空間に巨石の蓋を乗せて、部屋をつくり、そこに人を埋葬したというものです。
では、ドレンテに散らばっているこれらの巨石はどこから来たのでしょうか?有力な説としては、スカンジナビア半島からやってきたとされています。今からおよそ15万年から20万年前、ヨーロッパは氷河期にあり、ゆっくりと動く氷河が、スカンジナビアからヨーロッパの低地諸国へ岩石を押し流して来たというのです。氷河期が過ぎると、氷河は溶けて巨石を残しました。今でもドレンテの土を掘ると、大小さまざまな石が発見されることから、その主張はより確かなものとなっています。
ところが、この不思議な巨石建造物は、北欧、西ヨーロッパ、地中海、インド、東南アジア、北東アジア、ユーラシア大陸と世界中にたくさんあります。
スペイン南部のアンテケラという町に、ヨーロッパで発見された支石墓の中でも、特に奇抜で大規模な支石墓「メンガ」があり、作られたのは今から5000年前だと言われています。
メンガは32個の巨石で構成されており、頂石だけで250トン、柱は180トンもあります。構造物には3つの明確な部分があり、開放的な廊下は4つの頂石で覆われた通路につながり、その通路は小さな楕円形の部屋につながり、最後の4つの頂石は下の3本の直立した柱で支えられています。部屋には19.5メートルの深さの井戸があります。この構造は、ヨーロッパの支石墓によくある形式で、回廊に似ていることから、回廊墓、通路墓とも呼ばれます。
支石墓の本来の用途――優れた霊性を得る?
オランダの人類史学者ウィレム・ウィッテヴェーンは、墓の用途に加えて、食料の貯蔵に使われたのではないかという仮説を提唱していました。厳しい気候の中で、野生動物からの侵害を防ぐだけでなく、生きるために毎日食料や水を集める必要があった昔の北欧では、これらの食物や壺、皿などの重要な財産を保存し、動物や自然災害から守らなければなりません。
またロシアの支石墓には、戸板の前に丸い穴が開けられ、食料を積んだり取り出したりするのに使われ、通常は栓で閉じられています。冬になると閉じた穴を開けて食料の匂いを放ち、空腹の野生動物を引き寄せ、動物が近づいてきたら、大きな頂石に隠れたハンターが近距離で槍で動物を殺したといいます。
支石墓の作り方――秘密を解くカギ?
これらの巨石を建築現場に運んで積み上げるのはは、現代の技術をもってしても難しいことでしょう。一体、古代人はどのようにしてこれを実現したのでしょうか?
1857年、デンマークのフレデリック7世はある仮説を打ち立てました。まず、平らな面を持つ巨石を「梃子の原理」を使って丸太の列に置き、丸太を人力または牛で運搬させます。実際に、30人の力持ちがこの方法で重い巨石を動かしたという実験結果もあり、その可能性を証明した学者もいます。
その後、巨石をあらかじめ作られた土堤の近くまで運び、まず2列の立柱となる側石を土堤の両側の大きな穴に、平らな面を内側に向け、石と砂で固定された状態で設置していきます。両端は2つの支え石で閉じます。次に、重い頂石を運ぶために傾斜した砂丘が作られ、丸太を伝って巨石を上まで運び、側石の上に置きます。これが完成すると、部屋の骨格ができあがり、中の砂を取り除けば、支石墓が完成するのです。
歴史の流れの中で、支石墓は、その土地の材料を使って、さまざまな方法で建立され、いたるところに建てられてきました。厳しい気候の中で生き抜く原始人の知恵は、私たちの想像をはるかに超えています。もしかしたら、私たちの知らないもっと知的な建築方法が、発見されるのを待っているのかもしれません。
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https://www.epochtimes.jp/2023/07/161035.html
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