【明慧日本2014年8月23日】私の郷里は雲南省昆明市の東川というところです。銅の産出が豊富で「銅の都」と名づけられています。東川は古代から修煉のために深山に入る人が多いことでも名を知られ、ここに住む村民は皆、素朴で優しい心の持ち主です。1996年、法輪大法が伝えられてから、大勢の人が法輪功を学びました。ここに貧しく、水すら満足にとれない辺鄙(へんぴ)な小さな山村があります。その山村の七割以上の人は法輪大法を修煉しています。ここ東川では不思議な修煉体験が数多く言い伝えられています。その体験のほんの一部ですが、これらの体験を皆さんと分かち合いたいと思います。
1950年代ごろ、村に呉君という7歳ぐらいの男の子が住んでいました。呉君は牛を放牧する時、よく山にある洞窟に入っては、道家の修煉者(道人)と遊んでいました。道人は呉君を気に入り、よく道家修煉の昔話を言い聞かせていました。呉君は自宅からトウモロコシやジャガイモなどを持ち出し、道人に差し入れしていました。ある日、年老いた道人は、「何年か後に李先生が法を伝えるためにこの世にやってきます。私はこの幸運なことを、もう待つ事ができません。だから、もし巡りあえたら、あなたはくれぐれも、そのチャンスを見逃さないようにね」と言い残したまま涅槃に入りました。
呉君は成人した後でも道人の話を肝に銘じ、その後、大工の仕事に就いてから、あちらこちらで家具を作りに歩き回りましたが、その本当の目的は李先生を尋ねるためでした。1996年に法輪大法が東川の地まで伝えられた時、呉君の年はもう50歳過ぎていました。ある日、ある村民の依頼を受け、家具を作っていると、突然、小学校から優美な音楽が流れてきていました。呉さんは「あの美しい音楽は何でしょうか?」と依頼主に尋ねました。依頼主は法輪功の煉功音楽だと答えました。
呉さんの心は躍り、震えました。「師父はどなたですか?」と更に聞くと、「李先生です」との答えが返ってきました。呉さんは慌てて合掌して「師父、やっとお目にかかれました!」と言うと、大急ぎで小学校まで駆け込み、煉功に参加しました。そして五式の功法を一気に覚え、『轉法輪』と『大円満法』を手に入れて山村の自宅に戻った後、呉さんは、周りの人達にも法輪大法を広めました。
東川に「石羊村」という地名があります。言い伝えには、こう語られています。昔、天竺に行こうとしている羊の群れがいました。現在の「石羊村」という場所に辿り着きましたが、一部の羊は遠路を恐れ、もう前に進む気をなくして、その場に留まりました。その羊は結局「石の羊」になってしまいました。「石羊村」の名前は、その言い伝えに因んで名づけられたものです。90年代の初め頃、その石羊村に住む一人の若者は骨髄炎を患っていました。彼は治療を受けに昆明市に行きましたが、高額の手術費を支払えませんでした。彼は再び自宅に戻り、なすすべもなく死を待つばかりになっていました。
1996年に法輪大法が東川まで伝えられた時、若者は法輪功を試してみようと思い、学び始めました。最初は歩くこともままならず、普段、跪く姿勢で働いている若者は、足を真っ直ぐに延ばしたままで五式の功法を煉功していました。そのうちにだんだん、足が曲がるようになり、しばらく続けると足が組めるようになりました。更にしばらく続けると半跏趺坐もできるようになり、最後には普通の人と同じように歩けるようになりました。若者の身に起きた、この奇跡的な変化を目の当たりにした村人たちは、続々と法輪功を学びはじめました。
東川に小児麻痺の後遺症で足が不自由な10歳ぐらいの男の子がいました。その男の子も大法を学んでいます。ある日、一頭の豚が、後ろを歩いていた男の子の股下をくぐり、男の子を背負い載せて走りだしました。しばらく走っていくと男の子は豚の背中から落っこちてしまいましたが、男の子は正常に歩けるようになりました。その奇跡が村の全体を湧き立たせました。それからほとんどの村民は法輪功を学び始めました。
ここの村人は根基が良く、村のほとんどの人が法輪功を修煉しています。一家揃って大法を修煉している家族も少なくありません。十数人いる家族全員が修煉している家族もあります。江沢民集団が法輪功に対して理不尽で残虐な迫害を加えても、大きな圧力を恐れず真相を伝え続け、衆生を救い済度し続けている同修もいます。
――「明慧ネット」より転載
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