経営の神様 松下幸之助の人生を振り返る(1)

松下幸之助は、世界的に有名な企業である松下電器産業株式会社(現:パナソニック株式会社)の創業者であり、「経営の神様」と崇められた人物である。

彼は1894年生まれの享年94歳であった。彼の経営は世の人から見て、とても神秘的であった。 実のところ、彼は小学校4年生までの学歴しかなく、2度の見習いを経験している。 しかし、お金もなく、目を引く学歴もない彼は23歳で起業した。 彼の人生は信じられないような色彩に満ちていた。 実のところ、彼の成功の秘密はとてもシンプルで、誰もが知っているのだが、見落とされ、忘れられがちであった。
 

熱海会談の危機

静岡県熱海市の熱海城からの風景(Shutterstock)

 

松下幸之助は、後の人たちに様々な現代経営用語で研究され、要約されてきた。 人々は、ゼロから事業を興した彼の素晴らしい成功物語から、彼の独創的な経営手法を見出そうとしてきたが、彼について最も肝心なことを見落としていた。 高学歴を持たない人が、あれほど大きなコングロマリット(複合企業体)を率いるほどの驚くべき能力と力量を持ったのはなぜなのか?  まずは彼が66歳で社長を辞めた後に、企業の危機を見事に解決した話から始める。

この事件の解決は、単に危機を解決しただけでなく、会社をより安定させ、彼の社内全体における威光を示した。 危機を解決するための彼の意外なアプローチは、現場にいたすべての経営者にビジネスにおける深い教訓を与えた。

それはこのような出来事だった。 社長退任から3年後の1964年、東京オリンピックが迫る中、パナソニックは熱海会談を開催した。

熱海対談は静岡県熱海市のホテルで、松下電器が主催した。 全国の販売協会やパナソニックの代理店の社長やオーナーが参加した。 この会合の目的は、パナソニックの社員とこれらパナソニックの家電販売店のオーナーが一緒に座り、親密になり、顔を合わせる機会を設けることだった。

しかし事態はうまくいかず、交流が上手くできないばかりか、最初から大混乱に陥った。

パナソニック製品を販売していた代理店をはじめとする大手商社のほとんどは赤字で経営が苦しく、「パナソニックの家電を売り続けても、家庭に必要な主要家電は基本的に日本では普及されていて売れない」という不満が続出した。 商売の不安からパナソニックに矛先を向けるようになり、いつしか両者の間に解決できない対立が生まれ、それぞれが自分の利益を守るために相手を非難し、互いに譲らないという構図が激しくなっていった。

販売を担当する店員たちは、営業赤字の責任をすべてパナソニックに押し付けた。 パナソニックの製品が非常に悪かったという者、パナソニックだけが利益を上げているのはおかしいという者、パナソニックは不誠実で態度が悪いという者など、さまざまな感情や怒りが噴出した。

一方、パナソニック側は、赤字は自社の経営ミスによるものであり、パナソニックが原因ではないと考えた。 2日間にわたる交渉は波乱含みで、対立は一向に解消されず、交渉は失敗に終わろうとしていた。 互いの不信感と怨恨による結末は想像に容易かった。
 

危機を解決した幸之助の言葉

パナソニックの生産者と販売者の関係が壊れかけ、対立が激化していたとき、すでに社長の座を退いていた松下幸之助が思いがけない言葉を発し、危険な状況を奇跡的に変えた。

松下幸之助は、「この2日間、いろいろな意見や見解を伺い、検討した結果、やはり責任は我々パナソニックにあり、その原因は我々にあります。 深くお詫び申し上げます。私どもパナソニックは、過去長い間、皆様にお世話になり愛されてきましたが、時の流れとともに、徐々に、無意識のうちに、これらのご配慮と愛情を忘れておりました」と述べた。

この冒頭の謝罪、責任を取る勇気と恩を忘れない態度は、瞬時に皆の怒りを鎮めた。彼の溢れんばかりの謝罪と誠実な姿勢は、皆の心を打ち、静かに彼の言葉に耳を傾けた。

その後、幸之助は商売を始めたころの心境を語った。当時は周囲に数人しかいなかった。電灯作りから始めて数十年、今日のような大企業に成長できたのは、当時必死になって助けてくれた人、我々が作った電化製品を買い取ってくれた人たちのおかげであり、それを忘れるわけがないと幸之助は語った。

過去を振り返った幸之助は複雑な心境だった。起業の苦労も、苦難のときに受けた支援や好意も、すべてが胸にこみ上げてきて、思わず声が詰まり、嗚咽を漏らして涙がこぼれた。

それを聞いた皆、誰もが突然目覚めたかのように深く感動し、無意識のうちに長年にわたって築き上げてきた貴重な関係と恩義を忘れて、利益のために互いにを恨み合い、傷つけ合うべきではないと思った。皆、善良な心が呼び起され、「我々にも間違っているところはあった。パナソニックと共に頑張ろう」と自らを省みた。

こうして、それまで怨恨の絶えなかった両者が、たちまちお互いを思いやり、仲良く一つになった。

その後、ベンダー(販売業者)を再編成し、皆の意見を聞き、より合理的な販売網に集約することで、悪い方向から良い方向へと変えていった。
 

会社経営 人間としてのあり方

この事件の解決は、その場に居合わせたすべての加盟店に、企業経営における深い教訓を与えた。 感謝、謙虚さ、他人に対する真摯な態度、紳士的な人格、この人格こそが利益の前にしたときに人間の基本的道徳を忘れない、彼の偉大なリーダーシップと営業力の根源となっている。 人の心を動かすのは、脅しでも闘争でも利益の誘惑でもなく、人間の善良な本性である。

単刀直入に言えば、彼は自分の心の在り方を他人に示しただけなのだ。 他人が自分に与えてくれたもの、自分に感動を与えてくれたもの、それこそが人が最も必要としているものである。困ったときに手を差し伸べること、責任を取ること、ただそれだけの単純な心である。

日本企業を代表する財界の大物として、上から目線の傲慢さはなく、逆に困難に直面したときには、受けた恩を忘れた自身を反省する勇気を持ち、目先の利害に左右されない人間性はとても素晴らしいものである。

彼がまだ社長であったとき、中小企業の経営者たちに頭を下げるような寛大で謙虚であることができただけでなく、危機に際して自分の利益を守るために従業員を安易に解雇することもなかった。「会社は公共の器であり、自分一人の所有物ではなく、地域社会の福祉のためにある」という信念を貫いた彼は、生涯を通じて道徳と正義の言葉を貫いた。彼は神ではないが財界の聖人と呼ばれた。

実際、彼の経営の在り方は人間的であることであり、会社を経営する上で最も重要なのは人であると考えていた。結局のところ、会社を経営し、商品を製造する目的は人々の生活に利益をもたらすことであるため、人々に対しても非常に寛大に接したのである。

彼の思想は、到達不可能な優秀な学校からではなく、9歳の時の見習い期間と父親の影響から生まれた。 電気産業とはまったく関係のない、その一見困難な見習い期間中に、彼はビジネスのやり方を学び、それがその後の人生に影響を与えることになったのである。

 (つづく)

(翻訳編集 神谷一真)
 

劉如
文化面担当の編集者。大学で中国語文学を専攻し、『四書五経』や『資治通鑑』等の歴史書を熟読する。現代社会において失われつつある古典文学の教養を復興させ、道徳に基づく教育の大切さを広く伝えることをライフワークとしている。