報道特集 リメンバー!6・4天安門事件
【大紀元日本6月4日】
戦車の前に立つ青年、彼が誰なのか、今どうしているのか不明である(64memo.com)
1989年6月4日に中共政府が学生や民衆を虐殺した天安門事件は本年で16年目を迎える。この事件で失脚し自宅軟禁下に置かれた元共産党総書記・趙紫陽氏が今年1月17日に死去した。改革・開放に道筋をつけた趙氏の功績が再認識され名誉回復が期待されたが、政権維持のために中国共産党は旧態依然として警戒を強め、中国国内では民衆レベルの運動復活への機運は芽生えることはなかった。事件当時、民主化運動に加わった学生は現在、中国内外で社会の中枢を担う世代になった。自由と民主主義を求めて立ち上がった学生たちは、何を求め、何を失ったのか。事件の現場にいた彼らから、その真相と中国の展望について聞いてみた。
①改革開放への期待 官製メディアもデモに参列
開放政策による自由な雰囲気
胡耀邦氏は1982年9月、総書記に就任すると、改革開放路線と自由化路線を打ち出し、86年5月には「百花斉放・百家争鳴」を提唱して言論の自由化を推進し、民衆からは開明的指導者として支持を集めていた。
南京で大学時代を過ごした東京在住の中国人女性・章真さん(37)=貿易会社勤務=によれば、胡耀邦氏の政策の下、開放政策が始まって以来、最も自由な雰囲気がキャンパスや社会にあったと言う。
自由な環境で外国の思想が紹介され、思想的な交流や討論会などが活発に開かれた。学生や社会の知識人なども、社会に対して責任を持ち、中国の将来を真剣に考え、可能性と多くの希望に満ちあふれていた。
南京では、軍隊と学生との衝突はなかったが、北京に応援に行こうとしたら、兵士から銃口を向けられ阻止された。
事件が発生した年に大学を卒業した章さんは、政治に対して大いに失望し、その「恐怖の抑圧」が十数年にわたりトラウマ(心の傷)になった。
メディアも参列
当時、高校生だった中国人女性・貝善さん(32)=翻訳会社勤務=は、北京から遠く離れた田舎に住んでいたが、テレビの報道で事件の推移を固唾をのんで見守っていた。
官製の新華社や人民日などの報道関係者も先頭に立ってデモに加わったのが印象的だったと言う。
文化大革命で祖父が殺された貝さん一家は中共に対して嫌悪感を抱いていたので、民主化運動には期待を抱いていたが、都市部に比べると、民主・自由を求めるリベラルな雰囲気はなく、口外はできなかった。
北京師範大学の学生約7千人が参加したデモ=1989年5月4日(64memo.com)
②ハンガーストライキ 平和的に抗議する学生
400人以上の学生がハンストに突入し、7日目=1989年5月27日=(64memo.com)
学生は「階級の敵」
89年3月8日に北京人民大会堂で開かれた中国共産党政治局全体会議で、保守派の李鵬首相が、自由な討論に沸く大学キャンパスで学生たちが抗議集会を開いて現政権を開いてる事実を指摘し、西欧化によって腐敗した「階級の敵」であると学生たちを指弾した。
学生たちを擁護しようと発言に立ち上がった胡耀邦氏は、脳梗塞で病魔に倒れ、5週間後の4月15日に息絶えた。
胡氏の訃報が伝わり、同日、数千人の学生が天安門広場に集い、追悼集会を開いた。
会場には、「中国に民主主義移行の権利あり」の横断幕が掲げられ、民主主義や自由、汚職撲滅などのシュプレヒコールがうねりとなた。
共産党の首脳陣たちは、学生たちのデモを止めさせようとしたが、テレビや新聞などの報道陣が一緒に歩いていたことから、リベラル派の趙紫陽氏が制圧を止めさせた。
ハンスト闘争
学生たちの呼びかけは全国の大学に波及し、あくまでも合法的な手段で平和的に民主化を要求しようと整然と行動した。
民主主義要求をかけて、400人以上の学生がハンガーストライキに突入し、命を懸けた戦いがはじまった。
趙紫陽氏の失脚
胡氏の訃報から一ヶ月後の5月15日、ソ連のゴルバチョフ書記長を人民大会堂に迎えたが、北京政府を非難する学生たちの呼びかけが会場にまで聞こえ、面目をつぶされた_deng_小平氏は、学生を擁護する趙紫陽氏と対立。
権力闘争に敗れた趙氏はハンスト中の学生を訪れ、「わたしは来るのが遅すぎた」と、学生の期待に応えられなかったことを悔やみながらも、この自由を求めるドラマの舞台から消えた。
趙氏の後任として、上海で学生運動を鎮圧した江沢民が党総書記に就任。5月下旬から全国で学生や市民による抗議デモが行われた。
6月2日、中共政府は武力制圧を決断、10万人規模の人民解放軍が戦車をはじめ、ロケット・ランチャーなどまるで戦場に向かうかのように重装備で北京を包囲した。
「わたしは来るのが遅すぎた」と、学生たちに語る趙紫陽氏=1989年5月27日=(64memo.com)
③戦場と化した天安門広場
宮城県在住の中国人男性・曹忍さん(35)=大学講師=は当時、北京大学経済学院に入学したばかりだった。
6月3日夜、戒厳司令部の文字がテレビに映し出された。
天安門広場には、学生や市民がバリケードを作り、軍隊を入れないようにしていた。建国門の陸橋の下にはトラックがバリケード代わりに置かれ、大勢の人が荷台に上がり、軍隊とにらみ合っていた。
突然、戦車が陸橋めがけて加速しながら突進してきた。人々は荷台から飛び降りたが、間に合わなかった人々は、戦車になぎ倒されたトラックの下敷きになり、血だらけに横たわっていた。
突然の出来事に曹さんは頭が真っ白になった。学校の寮に戻ろうと道を急いだ。途中で大型バスから悲鳴が聞こえてきた。中を覗くと、兵士がひとり、7、8人の市民にかこまれ殴られおり、助けを求めていた。顔が血だらけになった兵士を見て、張さんは混乱状態に陥った。
学校の寮に戻ると、テレビで戒厳令が出され、息子を自宅に連れ戻そうとした曹さんの母親が待っていた。自宅に一緒に帰ろうと勧める母親に、張さんは学校内から出ないことを約束してとどまった。「文化大革命を経験している母から見れば、戒厳令が出されるということがどれだけ深刻なものかわかったいたのでしょうね」と曹さんは後から母親の心配が身にしてわかることになる。
軍はダムダム弾を使用
寮に戻った曹さんは学友らとブリッジカードをして朝まで過ごした。午前五時半ごろ、のどが渇いたので売店寮の向かいの売店に行こうとしたところ、花火のような銃声が上がり、ガス弾の黄色の煙で呼吸ができなくなったので、うつぶせになって芝生の顔を埋めてじっとしていた。
数分後、立ち上がってみると、周りには数人が血を流して倒れていた。仲間と一緒に三輪自転車で、最初に8人を近くの病院に運んだが、全員死亡していた。
遺体には、10センチ近くもある大きな穴が空いており、中には、腕が皮一枚でつながっているものもあった。医者がそれを診て、「どこかの工事現場で事故があったのか」と状況をまだ把握できていなかった。
それだけ突発的なことであり、まさか軍が市民や学生に発砲するなど思いもよらなかったのであろう。
さらに、医者は「どうみても、通常の弾丸ではない」と話した。曹さんによれば、国際法で禁じられていた殺傷力の高いダムダム弾だと後にわかったが、「そうしたものを、自国民に使用する中共政権の恐ろしさを感じた」と憤りを隠せない。
結局、四日午前10時ごろまで、軍隊による発砲が行われ、張さんは25人から30人を病院に運んだ。「体を弾がかすめる音も聞こえました。戦場というのは、まさにこういう場のことをいうのだと思った」と当時を振り返る。
傷した仲間を運ぶ学生ら=1989年6月4日=(64memo.com)
④弾圧の正当化を受け入れた民衆
政治への失望
南京で大学を卒業した章さんは北京で働くことになったが、「恐怖の抑圧」からトラウマに悩んでいたので、政治色が濃い北京での勤務は耐えられず、南へ職場を変え、数年後海外へ逃れ来日した。
「わたしだけではなく、当時の中国は、理想を抱いて少しでも向上しようとする意欲を失わせた。だから、わたしは海外へそれを求めた」と切々と語る。
また、曹さんは事件の翌日、6月5日付の死者23人の政府発表に愕然とした。自分が運んだ犠牲者の数ではないか。少なくとも数千人は亡くなっているはずだ。
その後、章さんと同様、政治に失望し、卒業後は海外に希望を託し別の世界を夢見て、2年後来日した。
弾圧の正当化
世界中がその事件の残虐さを目撃したのにもかかわらず、「軍が人民の誰一人殺害したり、危害を加えたりしなかった」(人民日報)と歴史を改ざんし、その真相を知る学生たちに対してはすり替えの論理で弾圧を正当化した。
これについては、昨年11月本紙が発表した「九評共産党(共産党についての九つの論評、以下九評)」の第九評に明らかにされている。―「例えば、強盗がドアをうち破って押し入り、強姦をも犯した。法廷における弁護では、その「強姦行為」のおかげで人を殺さずに済んだのであり、「強姦」と「殺人」を比べれば、殺人の方が凶悪である。従って、法廷は被告を無罪釈放とすべきと述べ、人々が「強姦は筋が通っている」と唱和すべきとする。 これは全くの荒唐無稽であるが、中共の六四(天安門事件)弾圧の理論は、この強盗と同じなのである。彼等の説は、「学生を弾圧」することによって「内乱」を防いだ。だから、「内乱」と比べれば「弾圧は筋が通る」ということである。―
信じられない話だが、曹さんによれば、弾圧の恐怖に圧倒された学生らは、共産党のこうした論理のすり替えで事件を総括し、政治に理想を求めることはなくなったのだという。
戒厳令下の北京市で警戒する軍人ら=戒厳令は1990年4月まで解除されなかった=(64memo.com)
風化する6・4天安門事件
日本の歴史教科書には敏感な中共政権は、自国の歴史の改ざんには全く鈍感だ。
曹さんは大学教員という立場上、中国人留学生を多く指導する。来日したばかりの彼らに天安門事件の話をすると驚く。
「そんなにたくさんの人が亡くなったのですか。しかも軍隊が市民に発砲するなんて」。そうした発言を耳にするたび、曹さんは「このわたしが生き証人」だと主張する。
中国共産党がなければ…
中国共産党は、「恐怖による抑圧」で中国民衆から理想を求め向上を目指す崇高な人間性を奪ってしまったといえる。
体制の維持と権力闘争のために、次代を担う多くの若者の命を奪った中共は同時に、国家の未来へのビジョンをも殺してしまった。
経済発展と都市の近代化が進む中国で、天安門事件のような虐殺と弾圧のおぞましい過去は葬り去られてしまったのか。
否、思想弾圧や少数民族の独立など、弾圧と虐殺は今でも続いている。中共の体質は全く変わっていない。
変わったのは、民衆の心であり、中共の邪悪な本質を見て見ぬふりをし、64事件の虐殺と弾圧を正当化する論理を受け入れてしまった中国民衆ではないか。
「九評」は、こう締めくくられている。「 中国共産党がなければ、正義を重んじる善良な中国民衆が必ずや再び歴史に輝きをもたらす」(第九評結び)。