ブログと日記文学 『土佐日記』
【大紀元日本5月27日】日記はマルセル・プルースト(フランスの作家)の描いた「失われた時を求めて」を回想する、自分自身への鎮魂の備忘録のようなものであるのかも知れない。『土佐日記』(935年成立)は、仮名文で書かれた日本最初の日記文学である。紀貫之が国司として赴任(930~934年)していた土佐から京へ帰郷する、55日間(12月21日~2月16日)の船旅を日記形式で綴った。
滞りなく役目を果たしたが、惜しむらくは、赴任先で幼子を亡くした事が貫之にとって耐え難い一大事だった。赴任先で知り合った人々の餞(はなむけ)のねぎらいに心温められて土佐を後にする。亡き子の面影をゆっくりとした船旅の哀歓に揺曳させながら、望郷の京へと心はやる想いが心なしか船足を急がせる。
京を発つときは子どもが一緒だったが、帰郷する門出の祝いにもかかわらず、亡くした子の一人分の船足の軽さが、心を塞いでいるかのような鬱屈した詩情に、絶えずつなぎ留められていた。なにしろ紀貫之は「いつわりの なき世なりせば いかばかり 人のことのは うれしからまし」という和歌を詠んだ人である。亡き子への忘れがたい思いを、故郷の空に持ち帰ってしまうことはできなかったのだろう。亡き子の最期の地(土佐)に哀切をもって、亡き子と貫之自身との思い出をやさしく埋葬する鎮魂の決意が、『土佐日記』誕生の発端であっただろう。
紀貫之は「男もすといふ日記といふ物を、女もして心みむとてするなり」という体裁をとって、亡き子への追悼紀行文の旅立ちを試みた。帰郷する国司(紀貫之)にお供する女性になぞらえて書き記すという天与の着想を得て、亡き子へのいとおしい未練が淡々と波頭の白い花びらを咲かせるように、初めて真っ直ぐに自身の心情に向き合って吐露する事ができたのだった。
紀貫之が生きた平安時代は、漢文で日記を書く事が貴族たちのステータスであった。男がもっぱらに嗜(たしな)んでいた日記という習慣の形式を、女が賢しらに横取りして書くからには、女が得意とした仮名文字による他はない。亡き子への心情を女々しくも男が連綿と綴るからには、女性の言の葉に仮託して述べる他ないほど紀貫之の気持ちは耐え難いほど切迫していたのだった。
ある意味で亡き子が書かせた『土佐日記』は、子どもの遺志をあらぬ方へと運んでか、仮名文の散文でこそ女性の心は上手く表現できるという「女流文学」のお手本となって流布した。男の独壇場であった平安貴族社会の漢文日記文化に、女のささやかな牙城を決然と拓くことに、男を投げ打って挑んだ紀貫之の心意気に捨てがたい男の面目を見る。
『土佐日記』の最後・・・ 「忘れ難く、くちをしきこと多かれど、え尽さず。とまれかうまれ、とくやりてん」。(望郷と忘却の旅路は)忘れ難く心残りなことばかりだが、それはとても書き尽くすことはできない。とにもかくにも、こんなもの(日記)は、さっさと打ち捨てて(亡き子の思い出を忘れ去って)しまおう・・・。その心計り難い締めくくりの余韻を、紀貫之は「とくやりてん」の言葉に忍ばせたのである。
こうして偲ぶ=忍ぶ愛は言の葉にならない残念の中に命脈を保って、後世の人々の心にいつまでも響き届けられていくかのようだ。かくして『土佐日記』は、亡き子のブログとして出色の父の抒情を世に問うただけでなく、時代に斬新をもたらす表現の革命がギリギリの思いの丈の彼方から、死者の思いを携えて自ずと時代を切り開いて出現してくることを、かくも雄弁に実証してくれた日記文学だったのである。