中国伝統文化の精髄―「二十四孝」(2)
【大紀元日本9月15日】「孝」は儒家の倫理思想の核心であり、長い間中国社会で家庭関係を維持するための道徳基準であった。それは、中華民族の伝統的な美徳であり、中国伝統文化の精髄でもある。
元の郭居敬は、中国古代の孝行が特に優れた24人の故事を集め、「二十四孝」を編集した。後に絵が配され、「二十四孝図」として孝行の道を広めるための通俗読み物となった。
(子路:二十四孝図より)
04 子路
子路は、姓を仲、名を由といい、又の字を季路といった。春秋時代の魯国の人で、孔子の自慢の弟子の一人。性格は率直・勇敢で、非常に親孝行であった。
若いとき、家は極めて貧しく、自らは野草を食べながらも、両親にはいい物を食べさせようと、百里離れた叔母のところから米をもらっては、それを背負って持って帰った。中国語の「負米養親」(米を背負いて親を養う)ということわざは、ここから生まれたのである。
両親の死後、彼は高官となって楚国に赴任した。ただ、日々錦の敷物に座り、豪華な食事を取りながらも、常に両親のことを懐かしみ、感慨深げに、「野草を食べ、両親のために米を背負いたくとも、もはやそれも叶わぬ」と語った。
(閔子騫:二十四孝図より)
05 閔子騫(びんしけん)
閔損は字を子騫(しけん)といい、春秋時代の魯国の人。孔子の弟子で、徳行に優れており、孔子が「孝なるかな、閔子騫」(論語・先進)と、その孝行ぶりを称賛したほどである。
彼の実の母は早くに亡くなり、父は後妻を娶って、子供が二人生まれた。継母はしばしば子騫をいじめた。冬、二人の異母弟には綿入れの上着を作ってやったのに、子騫には葦の花を入れた薄っぺらな服しか与えなかった。
ある日、父の外出に際して、子騫が車を引くことになったが、寒さで震えが止まらず、ロープを落としてしまったため、父にひどく叱られた。そのときちょうど、葦の花が破れた服の中から飛び出し、父は子騫が継母からいじめられていることを知った。
父は家へ帰ると、妻に暇を出そうとした。すると、子騫は跪いて、継母を許してあげるよう父に懇願して、こう言った。「母がいれば、寒い思いをするのは、私一人ですみますが、母がいなくなれば、三人の子供がみな凍えることになります」。
父はそれを聞いて感動し、子騫の言うとおりにした。継母もこれを聞いて、自分の過ちをひどく後悔し、それ以来、実の子のように、彼に接するようになった。
(剡子:二十四孝図より)
06 剡子(ぜんし)
剡子(ぜんし)は春秋時代の人。年老いた両親は目を患っており、治すには鹿の乳を飲まなければならなかった。そこで、剡子は鹿の皮を身にまとって深山に入り、鹿の群れに紛れ込んで鹿の乳を搾った。
ある日、剡子が乳を搾っていると、狩人が本物の鹿と間違えて自分を射ようとしているのに気が付き、あわてて鹿の皮を脱いで姿を現した。そして、事の経緯を狩人に話すと、狩人は剡子の孝行ぶりにいたく感じ入り、鹿の乳を贈ってくれた上、麓までわざわざ連れて下りてくれた。