上野・不忍池 の蓮(写真=大紀元)
【ショート・エッセイ】

泥より出づる芙蓉のように

我が国最初の勅撰集である『古今和歌集』に、を詠んだ一首「蓮葉(はちすば)のにごりに染まぬ心もてなにかは露を玉とあざむく」がある。

 歌意は、「蓮の葉は、泥水から生えて少しも濁りに染まらない清らかな心をもっているはずなのに、どうして葉の上に置く露を玉と見せかけて人を欺くのか」というもの。要するに、聖なる花である蓮が「人を欺く」というところに諧謔を込めたひねり歌なのであるが、技巧を求めて言葉遊びに流れた感もあり、あまり趣味の良い歌ではない。

 作者は誰かと見てみると僧正遍照とある。なるほど平安六歌仙の一人、あの遍照(遍昭とも書く)かと思い当たれば、『古今和歌集』の序文の一つである仮名序を読んだことのある人であろう。

 万葉以来の著名な歌や歌人について述べた芸術論である『古今和歌集』仮名序では、僧正遍照の歌を「歌のさまは得たれども、まこと少なし」と評している。つまり、歌の体裁は整っているが心情が足らない、と仮名序の筆者である紀貫之は遍照になかなか手厳しいのだが、それも的を得ていよう。歌の技巧とはいえ、蓮が人を欺くことはない。ただ、泥水から生えてきた葉が全く汚れていない蓮に対して、古の日本人も神秘的な清らかさを感じていたことは確かだろう。

 日本の平安時代より二百年ほど下った中国の北宋のころ、儒学者・周敦頤(しゅうとんい)が有名な「愛蓮説(あいれんせつ)」を記した。日本でもよく知られた文章なので引用には及ばないであろうが、大意だけを述べれば、「蓮は泥より出づるも染まらず」として蓮の孤高の美を称えるとともに、そのような蓮を自分は何よりも愛するという内容になっている。

 なかでも、菊は隠士、牡丹は富貴、蓮は君子であるとした上で、「陶淵明は菊を愛したが今はほとんど聞かない。唐以来、多くの人は牡丹を好む。ああ、私のように蓮を愛する者がどれほどいるだろう」と筆者は感嘆して言う。中国における牡丹中心の花の嗜好の中で、敢えて蓮を取り上げた筆者の特別な思いは意識して読み取ってよい。

 この120文字ほどの短い漢文の中で、蓮は文学的諧謔の対象では決してなく、修煉を積んだ人間だけが到達できる、筆者にとっての理想的な人格を表象している。つまり、筆者がここで語っているのは、もはや植物の蓮への好みではなく、いかに生きて我が身の次元を高めるかという、君子としての真摯な求道の覚悟なのだ。

 日本各地の蓮の名所では、これから花の見頃を迎える。蓮の花見は早朝が良いそうだ。時が経ち、昼過ぎともなれば花もしおれる。

 汚泥の世俗にあって我が身を清らかに保つのは、今も昔も容易なことではない。

(埼玉S)【ショート・エッセイ】より

 

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