胡錦濤は何処へ

2005/12/21
更新: 2005/12/21

【大紀元日本12月21日】胡錦濤が政権を執ってからの3年間は、中国人のみならず世界の人々にとっても穏やかな日々ではなかった。

一方では、世界規模で民主と自由の力が増大を続け、新旧の全体主義と共産主義の独裁政権が孤立した。しかし、独裁者たちは歴史の舞台から引き下がろうとはせず、世界規模で文明と人間性に対する攻撃を続けた。テロ行為が激しさを増す中、共産国家がじわじわと自由世界に忍び込んでコントロールをし始めた。しかし、これは邪悪な勢力の最後の一撃にすぎず、自らを二度と這い上がれない谷底に陥れるのを早めるだけである。

もう一方では、本紙が昨年ネット上で発表した驚愕的な『九評共産党』によって、海外在住華人に対する中共のコントロールが大いに弱まり、ひいては中国大陸の民衆を目覚めさせることとなった。これが引き金となって起こった中国内外の脱党のうねりにより、中共は建党以来最大の危機に直面することとなった。現在、中国共産党から脱党した人は、世界中ですでに600万人を突破した。中国共産党はこれに対処する能力を明らかに欠いており、危機を転嫁させ、文武両面から攻撃するという従来の手法を採るだけであった。対国内的には、すでに激しくなっていた民族主義の感情の炎に油を注ぎ、台湾を念頭に置いた「反国家分裂法」を制定し、同時に民間をそそのかして反米・反日運動を起こさせた。対外的には、胡錦濤は本来、_deng_小平の「才能を隠して表に現さない」という考えを継続し、「平和裏に立ち上がる」という理論を打ち出し、その国際政治環境を和らげようと試みた。しかし、この美しい表看板もあっという間に共産党軍の将校・朱成虎の核戦争による脅しと唐淳風の対日戦争論によって見事に打ち砕かれ、『九評』の攻勢の下、中共内部の闘争が激化していることを示した。

この背景の下、中国の党、政、軍の大権を一手に握る胡錦濤が始めて訪米を行った。

訪米の成果を飾り立てて政権基盤の強化に繋げようとする思惑であったが国賓待遇は得られず華々しい成果も報道できなかった。 ただしブッシュ訪中への道を作ったとはいえる。

江沢民が表舞台から退いた当初は、旧体制に失望していた中国人民は、胡錦濤・温家宝の新体制に一度は期待を寄せた。ところが、数年が過ぎた今、胡錦濤のなすことが暖かな春風をもたらすことはなく、苦労して作り出した国民への親近感と勤勉に取り組む姿は演技に留まっている。今回の訪米にしても、胡錦濤は、中国の武器の拡散、軍事力の脅威、エネルギーや北朝鮮の問題、中米貿易摩擦と中国の人権侵害問題に関して協議を行おうとするブッシュ大統領の意見を尊重しようとはせず、訪問の待遇や場所に関して大いに騒ぎ立てたのである。

胡錦濤のこの数年来の執政に人々が失望したのは間違いない。彼のなすことを詳細に検証すれば、彼に期待を寄せていた善良な人々は落胆するに違いない。今からでも、過ちを繰り返さぬよう策を講ずることはできる。古きを捨て新しきを立て、進んで他の意見を受け入れるのは正に今しかない。

未だ緩めない法輪功への迫害

江沢民はかつて、3カ月で法輪功問題を解決すると豪語したが、今、法輪功の迫害は江沢民とその一味にとって悪夢となった。彼らは、世界中どこへ行っても、必ず法輪功修煉者たちの抗議デモに遭い、現地の法廷に訴えられることになる。殺害者たちは、噂を耳にして肝を潰し、外国の役人から手渡された外交文書を受け取ることを恐れている。

胡錦濤は、権力を握ったことにより、本来、中共のこの目に余る殺人行為を改め、血なまぐさい迫害の張本人である江沢民を裁き、天下に謝罪するチャンスがあった。_deng_小平や胡耀邦が混乱を鎮めて正常に戻し民心を勝ち得たように、胡錦濤もこのチャンスを利用して地位を固め、政治的資本を積み上げることができたのだが、それを一切行わなかった。胡錦濤は優柔不断なのか、それとも人民に対立して本心から迫害を支持しているのか? 彼の立身出世の軌跡から見ると出世の糸口をチベットでの人民虐殺の督戦で得たといわれる男に期待するのは無理かもしれないが。

不完全な統計ながら、胡錦濤が2002年に中共の総書記に選ばれてから2005年の8月末までで、少なくとも1500名の法輪功学習者が中共の迫害によって亡くなった。胡錦濤が政治と軍の両方の実権を握った2004年9月からでも、少なくとも629名の法輪功学習者が迫害の中で命を奪われた。

2003年5月、重慶で警察が公然と法輪功学習者・魏星艶さんを強姦するという悪質な事件が起きた。この事件は、他の法輪功学習者たちの努力によって明らかにされた。その彼らは、憲法によって自らに与えられた基本的人権を守り、信仰を堅持しようとしただけなのに、逆に2004年に刑を言い渡された。そのうち、刑期が最も長い人は14年であった。

これまで江沢民が外遊するとき、一部の外国政府は、中共の圧力に押されて、抗議する法輪功学習者を妨害するということを行ってきたわけだが、胡錦濤はこの点でも江沢民の伝統を受け継いだ。2004年1月、胡錦濤がフランスを訪問中、海外の法輪功学習者たちが集まり、迫害の停止と江沢民に対する厳罰を呼びかけたのだが、結局、フランス警察の不当な取調べと拘留を受けた。フランスの一部のメディアは、この件に関し、シラク大統領に、中共に対するこのようなへりくだりが、結局フランスにどれだけの経済的利益をもたらしうるのかと問いただした。

2004年6月、胡錦濤は中国の国家主席として、ヨーロッパ4カ国を訪問した。6月8日胡錦濤一行がポーランドに到着した際、中国の駐ポーランド大使館が組織した華人歓迎団が様々な方法で法輪功学習者を妨害した。VOAの6月10日の報道によると、当時の目撃者の話では、中共の歓迎団は「極めて攻撃的」で、自分たちの横断幕で法輪功学習者の「江沢民を厳罰せよ!」「法輪大法はすばらしい!」と書かれた横断幕を覆い隠そうとした。また、法輪功学習者を攻撃しようとした者もいたが、警察の制止に遭ってあきらめた。

2004年11月16日、胡錦濤がアルゼンチンを訪問中、法輪功学習者が胡錦濤の車列に向かって「法が江沢民を裁く」と書かれた横断幕を掲げた。すると、白日の下、中国大使館員が公然と人を使って法輪功学習者から横断幕を奪わせた。これらの暴行は、胡錦濤の目の前で起こったのである。

現在の胡錦濤の本心が何であれ、時は過ぎ、多くの人が亡くなった。 江沢民集団の血の債務が次第に胡錦濤集団の遺産になりつつある。胡錦濤は、このまま優柔不断であれば、必ずやその災禍を受けるであろう。そして、望むと望まざるとに拘らず、将来法輪功を迫害した元凶の一人と見なされるのである。

全力で報道と言論を取り締まる

胡錦濤は執政以来、報道の自由の取り締まりとインターネットの封鎖にいっそう力を注いだ。2002年には、胡錦濤が自ら指示して、劉軍寧氏を中国社会科学院から追放した。劉氏が著書で自由・民主と立憲政治を宣揚したからである。2003年下半期から、中共の中央宣伝部は、テレビドラマ『共和制へ』を続けざまに放送禁止とし、『往時は煙に如かず』と『中国農民調査』を発禁とした。中央宣伝部は更にメディアに、朱厚澤、茅於軾、李鋭、胡績偉、林牧、鮑彤、蒋彦永、曹思源氏らの文章を載せないよう通達を出した。また、2004年9月、雑誌『同舟共進』の編集長・蕭蔚彬氏が免職となった。原因は、当雑誌が_deng_小平の政治改革が適時に推進されなかったことを批判する中共改革派の元老・任仲夷氏の文章を発表したからである。

中国大陸でこれまで見識があり、言いたいことをはっきりと主張することで知られている南方報道グループの傘下にある『南方都市報』と『南方週末』『南風窓』が何度も取り締まりを受け、『南方都市報』の元副編集長兼社長の喩華峰氏が8年の懲役刑に処せられ、南方報道グループの元調査研究員・李民英氏が6年の刑に処せられた。このほか、北京の『新京報』『21世紀経済報道』『中国改革』『戦略と管理』『炎黄春秋』などが何度も粛正を受け、2005年始めには、教育専門雑誌『教師の友』が「過度に思想性を重視している」ということから停刊とされ、3名の編集者が解雇された。

海外のサイトに対して、中共は硬軟の手を使い、従うものは通し、従わないものは徹底的に封鎖した。Yahooは早くに中共の膝元に屈し、Googleのような検索エンジンの大手も逃れる術がなく、ニュース検索結果の中で、問題になりそうな、中共に歓迎されそうにない中国語のニュースを故意にふるい落とした。また、国内の思想ネットに対する中共の指導方針は封鎖した。2003年10月以前には、中国大陸で自由・民主などの思想を伝えることを主とするサイトはおおよそ数十あり、その中にはかなりの影響力を持つサイトもあった。ところが、同年9月末から10月初めにかけて、これらのサイトはほとんど全てが当局に封鎖され、しかも、以前のように再度開通した後しばらく生き残れるということもなくなり、再度開通するとすぐに封鎖された。2005年3月、中共教育部は、多くの大学のBBSサイトを整理粛正し、北京大学、清華大学、南開大学、復旦大学、武漢大学のBBSサイトを閉鎖した。

中国大陸で発表の場を奪われた一部のネット作家は、海外のサイトに文章を発表するほかなかった。しかし、彼らを待っていたのは、いつ来るか分からない逮捕と拘禁であった。言論が理由で罪を問われ収監された作家や編集者は、趙厳、師涛、清水君、楊天水、鄭貽春、張林、杜導斌氏らである。趙厳氏の逮捕は胡錦濤自らの指示だと言われている。『21世紀経済報導』の記者・王光澤氏は、アメリカのある大学主催の学術会議で、中国大陸のネットの言論状況について発言を行ったことから、その新聞社から解任された。2004年末、劉暁波、余傑、張祖樺氏の3人は、「国家の安全を脅かした」という理由で、それぞれ北京の警察に召喚された。焦国標氏は中央宣伝部を批判する文章が理由で北京大学から授業を禁じられ、現在海外に追放されている。弁護士の郭国汀氏でさえ、投獄作家の弁護したことから、巻き添えを食い、弁護士免許を取り上げられ、結局カナダへ行かざるを得なくなった。

胡錦濤のなすことは、彼に国際的な「名声」をもたらした。2005年5月3日、フランスの首都パリに本部を置く報道関係者の組織「国境なき記者団」は、「報道の自由の敵」リストを公表した。リストに名前の挙がっている34のリーダーと組織は、全て報道の自由に違反したため直接の責任を負わなければならない。中国国家主席・胡錦濤は、江沢民の後を引き継いで、その他の常連である金正日やカストロらと並んで、2004年度の「報道の自由の敵トップ10」に選ばれた。当組織は更に、世界各国の報道の自由度一覧を発表した。中国は下から数えて5位であり、アジアではわずかに北朝鮮とミャンマーよりましで、サウジアラビアなどの君主制国家よりも劣っていた。

「国境なき記者団」によると、2004年に仕事の関係で監獄に入れられた記者は合わせて107人おり、中国はそのうちの4分の1にあたる27人で、『世界で最大の記者監獄』である。本紙の創刊にかかわった多くの記者たちもいまだに中共の監獄におり、10年の刑を科せられた者もいる。

2004年下半期、東ヨーロッパや中央アジアの前共産党国家では、次々に「花革命」が勃発し、元の共産党を引き継いだ独裁者たちは、逃亡したり転覆させられたりした。そのうちの一部の国では、非政府組織や西側の基金会の資金を受けた研究機関が大きな啓蒙作用を果たした。これが胡錦濤に高度の緊張を生み出した。2005年5月、胡錦濤は中国社会科学院に、花革命、特に民間の研究機関の花革命における役割について真剣に研究するよう指示を出した。また、中国で盛んに展開されている公民の権利擁護運動において、中国の民間機関の学者と弱い立場にある民衆が協力する兆しが見られる(例えば、唐山の数万人の農民が連名で、唐山市委員会書記・張和の中共人民代表大会代表資格の罷免要求をした)。このため、茅於軾氏の天則経済研究所、江平氏の上海法律経済研究所、曹思源氏の思源社会研究センターなどの、影響力を持つ中国の民間研究機関が次々に活動の停止を命じられた。劉軍寧氏の九鼎公共事務研究所は早くに活動ができなくなっており、わずかにサイトだけが残されている。

庶民の権利擁護要求を鎮圧して、とんとん拍子に出世

胡錦濤と温家宝は、就任後、一度は庶民寄りで三農問題(農業の振興、農村の経済成長、農民の所得増と負担減)に関心を持つ一面を見せた。2004年初め、中共は農業税の税率を徐々に下げ、5年以内に完全になくす計画であると発表した。しかし、中国農民は減税による実益を得ていない。中国国家統計局の資料によると、2004年初以来、大陸の農業資材と消費財の価格が大幅に上がっている。各種の化学肥料は20%前後高くなり、農薬、農業用ビニール、農業用重油などの価格も大幅に上昇し、農業税廃止により農民にもたらされた収益は完全に帳消しとなった。中国農民は依然として、腐敗、基層の中共役人による権力濫用、不法な耕地占領といった幾重もの魔の影の中で生活している。そこで、直訴と集団抗争が中国農民の訴えるための主要な手段となった。

中共の直訴受付部門の統計によると、2003年、全国の党・政府直訴受付部門は、併せて1272・3万人(件)の直訴書と直訴者を受理した。これは前年より4.1%増加した。そのうち、中央と国家機関が受理した公民からの直訴量は46%増え、国家直訴受付局が受理した公民からの直訴量は14%増加した。全国の党・政府直訴受付部門が受け付けた公民のグループによる直訴は、述べ件数31・5万で、延べ人数は712万人であり、それぞれ、前年より41%と44・8%増えた。そのうち50人以上のグループによる直訴は件数、人数ともにそれぞれ、前年より33・3%と39%増えた。グループによる直訴のうち、人数が最も多かったグループは800人余りで、北京へ直訴にやってきた一グループの人数としては最多であった。2004年の第一四半期に、国家直訴受付局が受理した公民の直訴書は20・2%増加し、直訴受付件数・人数ともそれぞれ99・4%、94・9%増加した。これらの数字は2005年にはいっそう高くなるものと予想されている。

中国大陸で長期にわたって三農問題に注目してきた学者・於建ロン氏の研究によると、村役人の汚職と収賄、土地の不法徴用、そして幹部による各種費用の恣意的な徴収が、農民の直訴の三大主要原因である。於建ロン氏の研究ではさらに次の点が指摘されている。多くの農民は、直訴のために上京したばかりの時は、中央政府を大いに信頼しており、中央が自分たちの冤罪を知れば問題はすぐに解決するだろうと考えている。しかし、わずか7日後には、70%以上の直訴者が、党中央国務院も含め、彼らが訴えた問題を「たらいまわしにしている」と考えるようになる。北京の直訴村に広く伝わる、「億万の冤罪者」の署名があるチラシには、「国務院は閻魔殿のようなもの。外には怒り狂った番犬、中は汚職役人」と書かれている。於建ロン氏は、人々が上京して直訴することによって、中央と胡錦濤・温家宝政治の威信は大いに損なわれるだろうと考えている。

沸き起こるようにやってくる直訴の民衆に対して、胡・温政府は2005年1月に新しい『直訴条例』を発布した。残念なことに、この所謂「新条例」も、中身は旧態依然として変わっていない。

まず、新しい『直訴条例』の肝心な点は、依然として直訴者を制限するものであって、地方役人を縛るものではないということだ。表向きは、直訴者の権利を保障することを重要原則としているが、同時にまた、地方政府が直訴者を迫害できるよう、各種の理由と口実が設けられている。新条例では、直訴者が守るべき「規範」が多く規定されている。例えば、第18条では、多人数の直訴の場合、「代表を選ぶこと。代表の人数は5人を超えてはならない」と規定されている。

ところが現実には、代表を選ぶには会議を開かなければならない。ただ、会議を開けば、中共の地方役人は直訴者に、簡単に「不法集会」とか「扇動、連座、脅迫、金品で誘惑、裏で人を操って直訴させた」罪を被せることができる。さらに、第20条に規定するように、直訴者は、国家機関の事務所の近くや公共の場所で不法に集会を開いてはならないし、直訴受付所に滞在してもならない。こうなると、中共の公安は容易に「民衆を集めて国家機関を襲撃する」という罪で直訴者を逮捕し、法によって刑事責任を追及することができるのである。つまり、この条例は実際には庶民の直訴を助けるものではなく、形を変えて、庶民の直訴を防止しているのである。これは、中共中央版の「直訴阻止」手段である。この条例自身、中共の憲法に違反するものである。

次に、この条例は、各地の直訴数と規模の順番と政治上の成績を連動させる体制を再度強化し、地方役人に、さらに多くの調査や直接移管したり監督したりする権力を与えた。例えば、第7条で明確に、「各級の人民政府は直訴関連の仕事の成績を公務員の審査体系に組み入れなければならない」と規定されている。つまり、新しい条例が出る前は、直訴阻止はただ単に地方政府の不文律の規定であったのが、新しい条例の発布後は、直訴阻止が中共中央政府によって体制化されたのである。この後ろ盾ができてから、地方政府はいっそう厳しい手段で直訴を阻止することができるようになった。

直訴の道を閉ざせば、中共に直訴のうねり以上の処理しがたい困難をもたらすだけである。案の定、新しい『直訴条例』が発布されて半年も経たないうちに、全国を震撼させる官民の衝突事件がいくつも起きた。2005年6月11日、一群の武装した暴徒が土地を守っている河北定州縄油村民の掘っ立て小屋に突入し、一切の武器を持たない男女の村民を狂ったように襲撃した。その間、たびたび爆発音や銃声のような音が聞こえた。この流血事件で6人の村民が死亡し、100人が負傷した。続いて、6月末、広東仏山市三山港村の土地を失った農民と当地の中央政府が、地方役人が私有財物を強行に破壊したことから厳しく対立した。7月初め、付近の村の民衆が次々に応援に駆けつけ、数千人の村民が鎮の派出所を包囲した。公安は600名の警官を出動させ、抗議する村民を警棒で殴打し、双方は激しく衝突した。これらの集団事件の多くには共通点がある。つまり、権利擁護を訴える主体はいずれも、中共の直訴部門の常連客であり、しばしば当地の中共官吏の暴力によって直訴をさえぎられてきたものであり、問題は根本的に解決する術がない。中共による人民虐殺の海外への報道は増えつづけている。

中共中央の「誹謗防止」によって、一部の人の耳を塞ぐことができるかもしれないが、中共は周リ王の手段を使えば、結局は周リ王と同じ最期を遂げることになる。ある独立人士が自由アジアテレビ局のインタビューを受け、2005年の大陸の集団事件について評論した時、今の中共地方政府のやり方は、実は毛沢東のような人物を生み出すために環境を作っているのであると語った。

中共国内で次々に起こる官民の衝突、見せ掛けの繁栄の後ろに隠された経済危機と信仰の危機、そして勢い盛んな脱党のうねりは、すでに中共が政治上、古いしきたりを後生大事に守ってきたことが失敗であったことを示している。本来、文革の災禍の後、すぐに解決すべきであった道徳の再建と制度改革の問題が、中共の指導者、_deng_小平と江沢民の浅い見識と職権で私益を謀ったことにより、ほったらかしにされた。そのつけが今、現在の中共指導者・胡錦濤に巡ってきたのである。

胡錦濤は目覚めるべきである。もし、「我慢の末、ついに自分の天下になった」というような独裁思想を排除せず、中共の海賊船に乗り続ければ、名声を一朝にしてなくすどころか、中国は再度新たな混乱循環に陥り、再起のチャンスを失ってしまうであろう。

中共は、反人類、反人間性の暴力集団・テロ組織であり、その壊滅は天地の道理であり、民心に合致するものである。胡錦濤は、たとえ国家元首の地位にあっても、個人の独りよがりな考えでは時代の歩みを止められないということを知るべきである。一つの選択が現実に彼の眼前に並んでいる。中共のこのぼろ船の副葬品として、まもなくやってくる革命の中で、秦の第二代皇帝・胡亥やチャウシェスクと同じ結末を辿るのか、それとも、個人の利益を捨てて、民族の大義に立って中共を捨て、中国に平和的に長期に亘る太平と安定、そして平和的な発展の道を歩ませるのか。

現在の中国はちょうど、巨人を必要とし、しかも巨人を生み出しうる時代である。もし、胡錦濤がその大任に耐えられないのなら、自ずと新しい英雄が取って代わることになる。劉禹錫の詩に曰く、「沈みかけの舟の側を多くの船が過ぎ行き、病にかかった樹の前では万木が春を迎えている」。これは自然の規律である。杜甫の詩ではさらに「爾曹の身と名はともに滅びても、廃たれず江河 萬古の流(好ましくない人物の名や身は滅んでも、大河の悠久の流れは途絶えない)」とあり、一個の個体あるいは集団が潮流に逆らった結末が述べられている。歴史の潮流に対抗すれば、身も名声もともに滅びる。それに対して、聖人の道は江河の如くとこしえに伝わり、中国が進むべき方向を、指し示しているのである。