日本マスコミの中国情報について

2006/08/04
更新: 2006/08/04

【大紀元日本8月4日】先日のテレビに、当時文化大革命に参加していたカメラマンの話を中心とする番組があった。文革の実態や当時の走資派とされた人達のその後の話を興味深く視聴した。案の定、製作は日本のマスコミ主体ではなかったようだ。日本の大手マスコミにとって、中国は未だに一種の聖域なのか、遺跡や風物等は別としても政治に絡んだテーマについては情報をかなり意識的に選別報道しているように見えるのは筆者だけではなかろう。

元々、中国当局には以前から都合の悪い情報については海外に漏れるのを極端に嫌う性向があることは公知の事実である。その内容はともかくも中国の面子を損なうと中国当局が考える問題は大なり小なり網をかぶせて頬かむりする悪癖がある。中国人は歴史的にも面子を重んじる民族であり、国家であれ個人であれ機微に触れる情報の公開については消極的になること自体は理解出来るが、それも程度の問題であろう。一方、本邦においては報道の自由を履き違えて有名人の醜聞に類することは勿論、事故や犯罪行為の被害者にまで執拗にマイクを突きつけるマスコミの姿は、何をしても許されると信じるマスコミ独特の思い上がりとしか思えないし、欧米においてもパパラッチといわれる人達が傍若無人の振る舞いに及び識者が眉を顰める事も少なくない。元を質せば、読者や視聴者の野次馬根性や人間の卑しい好奇心に迄行き着く問題でもあるが、その一方で、国家レベルで情報が統制されてしまうと全く別のしかも深刻な問題が発生することになる。つまり社会に於ける世論の形成自体が政府の厳重な統制下にあると言うわけだ。もとより、どの国に於いても国家機密が存在するのは当然ではあるが、それは飽く迄国益に限定されるべきものである。一例を挙げればサーズとか鳥インフルエンザのような人類全体に危機を及ぼすような事件の情報が無責任に報道されれば、無用の混乱を招くのみか、流言蜚語を招き経済活動全体にまで悪影響を及ぼす事は必至であり、その意味で情報がある程度管理されるのは当然としても、本来開示すべき、つまり警報の形で注意を喚起すべき情報に至るまで隠匿したり、小出しにするのは如何なものか。本邦の各地それも首都圏のみならず地方都市にまで不法滞在中国人による凶悪犯罪が多発している冷厳な事実を中国の民衆は、全く知らされてもいないであろうが同様に中国内部における組織犯罪や抗議活動の類も碌に報道もされてもいないと云うのが真相であろう。これは単に体制の違いと称して済まされる性質の問題ではなかろう。何でもかんでも報道しろというのではない。節度があって然るべきではあるが、マスコミが国家の統制の道具と化すれば害の方が多くなるのも道理である。

さて、40年も前の話であるが、中国で文化大革命の嵐が吹き荒れていた頃、日本の所謂進歩的文化人が押しなべて文革を好意的に評価していた風潮が想起される。差別用語は慎むべきではあるが、文字通り「群盲象を撫でる」と云う諺が相応しい限られたお仕着せの情報、つまり中国政府に招待された人達が見聞した農場、施設、参加した催事のみの体験から文化大革命や人民公社を賛美したのはそう昔の事ではない。大手新聞にもその種の記事がよく掲載されたものである。尤も渡航した人のなかにも、けっこういい加減な人もいたようで、ある施設を見てあまりに感嘆するので同行者が「この程度の施設は日本にもいくらもあるではないか」と詰ったところ「私の住んでいる町内にはない」と答えて恥じぬ御仁がいたそうな。要するに文化大革命や人民公社の実態を冷静に評価出来ていたか否かであろう。マスコミは社会の公器である。世論においては正しくオピニオンリーダーである。その故にこそ首相であろうと大手企業であろうと容赦のない批判に曝される事を甘受せねばならないのが民主主義の社会である。この面に関する限り日本のマスコミは戦前とは明らかに一線を画する存在となったが、残念ながら、中国に関する情報を除いてと言わざるを得まい。

さて、日本のマスコミにとって何故中国情報が偏向するのか考えてみると大体二つの特色に起因するものと思われる。一つは云うまでもなく中国政府による情報統制を目的とした徹底した差別である。つまりマスコミを友好的なものと非友好的なものと峻別しコントロールしているのである。例えば支局の開設や特派員のヴィザに至るまで強引な差別を強いる結果、日本の大手新聞に代表されるマスコミは競争相手が受ける待遇との優劣を意識せざるを得なくなる。これは現地の責任者にとっては正しく死活に関わる重大問題である。これは何もマスコミに限った話ではなく、例えば金融機関でも以前ある大手行が台北に支店があるとの理由で長期にわたり中国本土に進出出来なかった経緯がある。その癖、米系マスコミや米銀にはそれほどのあからさまな差別はなかった。その結果、日本のマスコミは本意ならずも中国当局に忌避されぬよう細心の注意を払わざるを得なかったのである。その風潮の結果、日本の政治家が少しでも中国に対して厳しい発言をすると、人民日報の記者より先駆けて中国外務省や関係当局に駆け込み御注進し反論のコメントを貰うのを特技とした新聞社もあったそうだ。迎合とまでは言わずとも当然のことながら足許を見られていたのである。

もう一つの理由は、業種が何であれ中国業務にはどうしても特化した専門家が必要だったことがある。単に語学のみならず、人脈がものを云う世界にあっては避けて通れない問題では有ったかも知れないが、結果として、中国業務に従事する者には、万が一にも中国当局から非友好的人物つまりペルソナノングラータの刻印を捺されると、直ぐ、仕事が出来なくなると云う隘路があった。中国に特化する事で存在価値のある人が、そうなると「岡に上がった河童」となる。この点は残念ながら日本の在外公館に勤務する外交官に於いてすら似たようなものだ。因みに名高いチャイナスクールも、その例外ではなかったと見るべきであろう。最近、極めて高い見識を持たれる元第一線外交官の手記が出版されたが、そこに記されている事実は恐らく殆どの中国情報に精通する人々が熟知していた事情であろう。問題は、そのような情報を知っている現職の人達にはそれが出来ないと云う点にある。

つまり直接間接に極めて陰湿且つ巧妙な方法を駆使して堂々と情報操作が行われているのである。いまや近代都市国家としてユニークな発展を遂げたシンガポールも、ある意味では極めて情報管理が徹底しているのは公然の秘密ではあるが、同国の場合、民生に注力する自由主義国家としても認知されており、国際社会も黙認しているのであろう。中国も何れは、シンガポール並みになるとは思いたいが、如何せん中央政府の教業主義や牢固たる官僚制度、中央の方針を忖度する地方官僚の保身等が災いし「日暮れて道遠し」となっているのではなかろうか。当然のことながらかの名高い公安は、古典的手法も含めて未だに大きな力を持っているように見える。

冒頭に述べた番組では文化大革命の恐るべき実態について、写真や回想に限定され、当時の関係者へのインタビューも極めて控え目に構成されていた。勿論、公安当局の厳しい検閲を経て公開に至るまで大変な苦労があったことであろう。さりながら、考えてみると、中国問題についての日本の大手マスコミは明らかに欧米同業者とは違うスタンスを採ってきたようだ。少なくとも国務院や政府機関の対外関係を仕切る弁公室主任達が困惑するようなニュースは先ず日本のメディアのスクープだった試しがない。結果として読者や視聴者は、その点に留意してマスコミの流す情報を理解する必要があろう。中国大衆から最早「日付以外信じるに足る情報無し」とまで酷評される人民日報を他山の石として日本のマスコミもそろそろ欧米並みに為って欲しいものである。今や、インターネットの時代であり、中国の国際化に伴い幸いにも日系企業も中国業務に欧米勤務経験者を次々と配属する時代になった。そろそろマスコミの世界でも、偏見や管見でないフェアーな情報を期待したいものである。日本の読者や視聴者は中国当局の広報代理店には興味なく、正確且つバランスのとれた公平な情報を求めているのだから。