法治と人治

2007/04/30
更新: 2007/04/30

【大紀元日本4月30日】中国には悠久の歴史がある。その昔万国と称された無数の小国の集まりから収斂を繰り返し春秋戦国を経て秦の始皇帝が統一を成し遂げ大帝国を築いて以来、今に至るまで幾多の王朝の盛衰があった。古人が「秦長城を築いて鉄牢に比せども尭階三尺の高さに及ばず」と詠い強権政治を批判し徳治を渇仰した記録も残っているが、中国の歴史は常に人治と法治の相克の歴史でもあった。中華人民共和国の建国以来、すでに人間の一生にも相当するだけの時間が経過したが、その間に中国共産党の各級権力者が急速に権力や拝金主義に汚染され、既得権益の確保に汲々としているのが今日の中国ではなかろうか。急速に増加している資産家のかなりの部分、実質その9割が所謂太子党つまり共産党幹部の子弟やその縁者達であると言う話もある。事の真偽は分からぬが恐らくは権力と結びついた動きの典型であろう。汚職官吏の追求にも懸命には見えるが、スローガン程の成果は上がっておらず、むしろ現政権と上海閥の権力闘争の用具にすら使われているのではないかという憶測すらあり、上海市の高官達が逮捕されたという記事も暫く新聞を賑わしたのは記憶に新しい。最近の新聞によれば何と汚職摘発の任務を帯びた本家本元の官僚までが巨額の汚職で逮捕されたと云う話まである。

その中国では盲流とか農民工と称せられる2億とも言われる無数の出稼ぎ労働者達が劣悪な環境の元で中國経済の発展の底辺を営々と支えており、一方では9億の農民の生活が依然遅々として進まず、沿海省市の繁栄に比べ大きな社会問題になっているそうだ。年間8万件を超えるという農民の暴動や騒乱が発生しているという痛ましい情報も後を絶たない。北京には直訴や請願の人達が劣悪な環境の元に何時叶えられるかも判然としない状況にも拘わらず必死に直訴の機会を待つ一方、酷いことに官憲がその人達を強引に排除したり無情に追い返すケースも少なくはないと聞いているが、その根本原因は一体奈辺にあるのだろうか。直訴を願う人達も千差万別であろうし、中には冤罪を晴らそうとする人達も多いのであろうし、理不尽に土地を収奪された農民の代表者も大勢いるのではあろうが、そもそも何故に彼等が直訴という究極の方策に縋るのだろうか。幾ら制度としての直訴があるとしても元々地方にも各級の人民法院があろうし、仮に下級法院で敗れても上級の裁判所に控訴することは論理的に可能な筈であるのに何故わざわざ遠隔地から上京して不便な生活を強いられながらも敢えて中央政府に直訴や請願をしようとするのか。実際には、まともな宿泊施設にも滞在出来ず、巷間では上訴村とも称される貧弱な施設とすら云えぬようなところに寝起きしながら只管直訴の機会を願うにはそれなりの理由がある筈であろう。

中国は歴史的に見ても人脈がものをいう社会である。さりとて要路の領袖や幹部に知己がいるのはほんの一握りのエリ-トのみであり、そのようなエリート達は結構要領よく問題を解決するだけの力を備えてもいようが、地方の農民にはとても考えられぬ画餅であろう。まして、抗争する相手方が当局つまり地方の各級人民政府やそれを後ろ盾とする企業であれば尚更の事であろう。当然の事ながら彼等は強固な横の繋がりを持ち、三権分立の建前とは別に、実態では各地方に強固な人脈からなる独特の地域社会があり、程度の差こそあれ利益共同体となり、司法や裁判にすら堂々と干渉するだけの権力や基盤を堅持しているのが実情ではないのか。残念なことにその殆どに共産党の各級党員が強い影響力を持っているのであろう。もし当局の各級幹部が清廉潔白な人士、昔から清官という言葉で表現されてはいたが、その清官ですら清官三代とまで云われた程役得が多かったと言われる中国ではあるが、地方人民政府つまり各級の行政、司法当局の責任者が本来の人民に服務することを使命とする清廉な官僚で占められてさえおれば、ここまで農民が窮する事態には為らない筈ではないか。行政、司法の隅々にまで徒党を組む手合、それも正規の共産党員幹部やその意を忖度する連中が盤居するからこそ、何の救済措置も持たぬ農民にとって直接国務院直属の機関に請願するのが残された唯一で最後の望みなのであろう。痛ましいことにその請願が叶えられる可能性は極めて低いのみか、却って相手方の妨害工作による報復や隠蔽の結果、労改送りを含め悲惨な境遇に陥る可能性すら多々あることを熟知しながら何故、それ程までに直訴する人達が後を絶たないのか。

答えは簡単明瞭である。それしか活路が無いからだ。例え僅かの可能性でもそれに賭ける以外手段の無い人達である。上は最高裁に相当する司法機関から初級の人民法院や警察まで、民の頼れる清官が少なくなったことが事情に拍車をかけているのではないのか。どこの国でも官僚の事なかれ主義は共通事項である。まして、数千年の間に牢固として根づいた中国の官尊民卑や事大主義に、硬直的な絶対的服従を党是とするロシヤ式共産党の上意下達の官僚制度がそのまま移植された結果、本来人民に服務する筈の組織が急速に動脈硬化を起こしてしまい、そこに無秩序な拝金主義が横行するとなれば、その答えは一つしかあるまい。要するに権力の腐敗であり官僚組織の壊死である。残念なことに李下に冠を正し、瓜田に履を直す手合が跋扈し、最早身体の一部ではなく全身の隅々にまで、つまり中央や地方の全ての段階で官僚組織の動脈硬化が進み、あらゆる部署で壊死が進行しているのが正しく年間8万件にも及ぶという農民や労働者の争議の真の原因ではなかろうか。和諧社会なるモットーも流石に危機感に焦る中央政府の遅きに失した政策なのかも知れないが、実際には何等の抜本的な施策も打ち出せず、むしろ客観的に見て糊塗するような施策或いは対症療法に終始する実情は、矢張り中国共産党の目的が本来の人民に服務から共産党や帰属する単位に服務する事に変質してしまった何よりの証拠であろう。僅か数十年の間に中国共産党の独裁は「権力は腐敗する」という人類の悲しい経験則の通りになったということであろう。国威発揚も何の事は無い共産党の成果誇示以外の何物でもなかろう。1兆ドルにも達する外貨準備は党の私物ではなく中国人民の膏血ではないか。ステルスジェット戦闘機や原子力空母;や人工衛星破壊兵器よりも優先度が高い筈の民衆福祉はどこに行ったのか。事の是非はともかく以前は中国共産党の名物でもあったあの峻烈な自己批判制度はどこに行ってしまったのか。人間の身体に例えれば未だ壮年期どころか青年期に入ったばかりなのに既に全身の血管が動脈硬化を起こしてしまっているのは文字通り共産党独裁という制度が壊死している証拠以外の何物でもなかろう。このままでは中国悠久の歴史のみならず人類の歴史に空前絶後の汚名を残すのは先ず避けられまい。人類全体の為にも実質的には資本主義化しているのに19世紀の古色蒼然たる経済学者へのいわれなき固執は早急に是正すべきではないか。まして戦時でもない時期に自国民に人類史上最悪の人為的災害をもたらした初代の毛沢東主席を国家の象徴とするような振る舞いは最早是正すべきではなかろうか。古今東西の殷鑑に照らして極悪非道の暴君とされるどの帝王と比べてもけた違いの多くの民草を殺害した人物をいつまでも国父や国家の象徴とする事を後世の歴史家は何と評するだろう。元来中国には気骨のある史官や歴史家が少なくない。斉の太史、晋の董弧や司馬遷等、錚々たる人士を生んだ民族である。何れは正鵠を射た評論が出る日もあろう。

昔から不可能を例える「百年河清を待つ」と称された大河が断流を起こす原因も単なる自然現象のみではなかろう。昔人ならきっと素直に天変地異の予兆として恐れ慄いたことであろう。古の「邦域を総統した聖賢達」もまさか中国の母なる黄河が断流するような事態までは想定していなかったのだから。世界の人口の実に5人に1人は中国人である。昔の大国であった方百里の国には確かに人治や徳冶にも利点があったろうが、所詮中華人民共和国は人治や徳治には巨大過ぎるのだ。諸問題の解決には最早まともな民主主義による法治以外方策は無い。早く対応しなければ混乱を来たし人類全体の災厄ともなろう。世界の工場に異変が起きればどの国も無傷では済むまい。今や世界は一つなのだから。民主主義と共産主義の争いにはソ連邦の崩壊により既にけりがついているというのは人類共通の認識である。中国式の民主主義なる羊頭狗肉で糊塗するには事が大き過ぎる。信教の自由についても早急に是正すべきであろう。人間の精神や心のよすがである宗教まで国家が否定したり管理しようというのは所詮不可能な領域である。民主主義による法治国家以外中国が直面する諸問題に有効な解決方法がないことは既にかなりの極左や極右はどこの世界にもにいるが13億の民のために一日も早く古色蒼然たるドグマに縛られず姑息な権謀術数や権力闘争ではなく中国人民の民生、真の民主化に向かって邁進して欲しいものである。中国は船に例えれば世界最大の巨船である。方向転換には小船と異なり時間がかかる。ULCCですら舵輪を操作しても方向が変わるには数海里では足るまい。つまり成果を得るには時間が必要である。それだけにブリッジにいる船長や航海長の責任は重い。無数の船客の命が掛かっているのだから。「良き航海を祈る」のは筆者だけではあるまい。