生死の関門を十数回くぐり抜けた女性法輪功学習者の物語

2008/07/27
更新: 2008/07/27

【大紀元日本7月27日】「編注:1999年7月20日、法輪功に対する中共当局の弾圧が始まって以来、すでに9年が経過している。この弾圧は中国歴史上、ひいては世界歴史上でも類をみないほど残虐で大規模なものとされているが、世間に知られているのはそのごく一部分に過ぎない。下記の物語からその一端が窺える」。

張連英さんは、公認会計士で中国国有大企業・光大グループの某処の処長であった。人格の良さ、業務能力の高さに定評があり、主流社会のエリートであった。かつて法輪功の修煉を堅持したため中共当局に何度も連行され、3回非合法な労働教養処分(強制労働や思想改造など)を言い渡された。2回目は05年6月14日で、当時張さんは授乳期の最中であったが、家の中へ突然北京香河園派出所の10数人の保安警察が突入し、張さんを連行して行った。いかなる法的根拠もない状況下、2年半の労働教養を言い渡された。07年12月13日にやっと釈放されたが、08年4月20日、夫の牛進平さんと共に再度当局によって連行され、2年半の労働教養を言い渡された。現在2人とも労働教養期間中であり、彼らの4歳の娘の清清ちゃんは80歳近い祖母が代わりに世話をしている。以下のことは張さんの2回目の労働教養期間中での体験と釈放された直後の心境に関するものである。

2回目の労働強制から釈放された直後の張蓮英さん。

迫害で14回瀕死状態に

張連英さんは、2年半の労働教養期間中、当局の迫害により14回も瀕死寸前にまで追い込まれた。警察官に9回首を絞められ、意識を失った。そのうち、2回は手で絞められ、7回は縄で絞められた。いずれも病院には送られなかった。そのほかに、張さんは5回の拷問などで重度の意識混迷状態になり、北京仁和病院と労働教養所の所属病院・北京天堂河病院へ緊急に送られた。その中の1回は、激しく殴られて大脳両側に広範囲に及ぶ出血が認められ、1回は袋叩きにされて動けなくなり、1回は不明の薬物を注射されて人事不省と視覚障害(ものが二重に見える)に、1回は長時間日光に晒されて意識不明に、1回は長時間睡眠を剥奪されて絶食したため、体の状態がきわめて悪くなった。

06年3月20日、張さんが殴られて意識不明になった時、検査で大脳両側の広範囲に及ぶ出血と判明し、後に天堂河病院から仁和病院へ移されて10日間緊急措置を施してやっと危険状態から脱した。しかし、労働教養所は、「彼女が自分でぶつかった可能性がある」とした。実際、張さんが監禁された特別な小部屋「幽閉室」にはモニター設備が設けられ、ビデオテープを調べればその原因がすぐ分かるはずだが、労働教養所は頑としてビデオテープを提供しようとしなかった。

張さんは不法な拘禁中、裁判所、検察院、北京市労働教養局、北京市司法局などの政府部門や個人に手紙を書き、被った残酷な迫害を訴えたが、すべてなしのつぶてであった。

地獄にいるような苦痛

張さんはかつて数カ月にわたり不明な薬物を注入されたことがあった。女子労働教養所で管を食道から胃に挿入し、強制的に食物を注入する時、しばしば不明の薬物も入れられ、何カ月も連続し、長期間下痢をした。2回目の労働教養所から釈放されるまでの3カ月間では、毎日午前中に不明な薬物を注入され、毎日午後と夜に持続的に下痢をした。

また、かつて何回も数人に殴られ、長い時間睡眠を剥奪され、口の中へ大便を入れられ、何回も口と鼻を塞がれて呼吸できなくなり、尿を失禁したことがある。また数カ月間、毎日首を4、5回締められ、口と鼻を塞がれ、尿を失禁するまで繰り返された。警察官の手下らは「おまえを苦しめて殺したいのだ」と憚りなく言った。

06年6月1日〜7月20日の50日間、張さんは昼夜四肢を縄で縛られた上、首は縄で椅子に固定され、頭に部厚い物を被せられ、しばしばズボンの中に排泄させられた。

張さんはまたかつて耳を聾するばかりの高音を聞かされ、3カ月間昼夜苦しめられた。3平方メートルぐらいの非常に狭い幽閉室に1年余り監禁された。そこは、冬は寒くて湿っぽく、夏は蒸し暑く、臭くて、蚊・蝿が多くいた。その期間1カ月ほど、窓や戸の隙間がすべて遮られて外からの光線はぜんぜん入らず、昼夜の区別もできなかった。床とベッドはいずれも毎日水をかけられ、体も同じく水をかけられてびしょ濡れで、両足は1日中汚水の中に浸かっていた。便所の近くのベッドにはウジムシがいっぱいで、そのため、張さんの皮膚のいたる所が糜爛するようになった。

最も恐ろしい拷問

迫害された2年半の間で、今でも張さんを苦痛に陥れ、甚だしきに至っては思い出す勇気さえなくすほど、ぞっとする迫害の手段は、何度も口、鼻を長時間塞いで、尿をも漏らすまで呼吸させないことである。それは想像を絶する拷問で、窒息させ、死ぬ寸前まで追い込むのである。

その体験を張さんは次のように表現した。「数カ月間、私は毎日このような残酷な迫害を経験した。彼らは濡れたタオルで鼻と口を塞ぎ、完全に呼吸ができないようにして、ほとんど窒息して気絶する寸前に、彼らはタオルをはずし、それからまた塞いで、このようにして、彼らの注目の下で、まったく人間性のかけらもない拷問の中、苦痛は極限に達し、全身抑えきれなくなって、まるで爆発しそうになり、最後にはすべての力が抜けて尿を漏らしてしまう。すると、彼らはまったく人間性がなく、『やった!』と叫ぶ。彼らが監視室のスクリーンで私の苦痛と屈辱の全過程を鑑賞し終わった後に、北京市労働教養局から直接派遣された王警察官(警察番号1159333)が幽閉室に飛び込んで来て、邪悪そのもので『どうだ、気持ち良いだろう』と聞いた」。

信仰への固い信念が素晴らしい人生への固い信念を抱かせる

欧州議会の中国人権公聴会に送られた告発状では、張さんはこうなぞった。

「あの生きるより死んだほうがましという苦痛は、世間一般の言葉では形容できない。刑の執行者が故意に延長する死ぬ間際の窒息状態の中、時間が無限に引き延され、空間は完全に隔てられ、その時、苦痛自身はすでに怖くなくなり、本当に恐ろしいのは苦痛の果てが見えないことであった。あれは生命にいかなる望みもない恐ろしい体験で、それは十分に生への意志を潰す恐ろしい絶望であった。その時、死はすでに恐怖の体験ではなくなり、むしろ一つの解脱であった。彼らはわざとそのような生と死の間で、苦痛で私を繰り返し拷問し、私の意志を潰そうとし、私に信仰を放棄させ、『転向』させようとしたのである」。

「ある時、私が窒息して気絶状態から意識を少しだけ回復した時、刑の執行者の会話を耳にした。それは私の首を絞め、口を塞ぐことに参与した一人の『包挟』(労働教養所で法輪功学習者に対する迫害に利用されている受刑者たち)が現場の他の包挟や警察官に「彼女は死んで、二度と目が覚めないようにならないか」と聞いた。すると、すぐに誰かが「死んだら心臓発作とすればいい、死亡の許容人数があるから、恐れるな」、「大丈夫、死なないよ、人間は数分間窒息しても死なないよ」、「私達は彼女に死にそうで死に切れない、生きそうで生きられないことを味あわせたいのだ」と言った。

14回も生死の境目を転々とした張さんは、自分の内心世界をこう表現した、「もし『真・善・忍』の信仰者でなければ、もし素晴らしい人生への固い信念を抱いていなければ、もし必ず生きていき、絶対死んではならないという一念がなければ、その一刻は何回もこの世を離れ、永遠に帰って来ないだろう……」。

 (中国語編集・林雨、日本語編集/翻訳・金本)