「文化大革命」を生き抜いた米国人孤児の実話(上)

2010/10/31
更新: 2010/10/31

1960年代から70年代にかけて10年間続いた文化大革命の嵐。それは中国の全国民を巻き込んだ粛清運動だった。迫害に耐え切れず自ら命を絶ったり、拷問により命を失った知識人は数百万人から一千万人以上とも言われている。深遠な中華民族の伝統文化もこの時期にことごとく破壊された。そんな狂気の年月を生き抜いた一人の米国人孤児がいた。海外中国語誌「新紀元週刊」は、彼女が遭遇した様々な出来事に焦点を当てた。本サイトでは2回に分けて紹介する。
 

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 「文化大革命」が始まり、学校の「大字報」(壁新聞)は、校内に米国帝国主義とつながりを持つ「スパイ嫌疑者」が潜伏しているとほのめかし始めた。いやな気配を感じた韓秀は決心した。「新疆へ行こう」と。それから9年間、彼女は新疆のじめじめした穴ぐらで、塩ゆでの白菜とトウモロコシ粉のパンで飢えをしのいだ。極度に厳しい肉体労働のなか、彼女の唯一の心の支えは生きてそこから出ることだった。

 1948年9月、太平洋上を航海していた一艘の米国軍艦、その甲板には、米国人の若夫婦と息子のジョン、そして2歳の女の子テレサが立っており、遠方を眺めていた。ニューヨークからやってきた一行は上海に向かっていた。宣教師である両親を説得して、危険と動乱に満ちた中国から一刻も早く連れ戻すつもりだった。当時の中国は、共産党の軍隊が旧ソ連の支援を受け、東北地区では国民党軍と熾烈な内戦を繰り広げていた。

戦火の中、親族を頼って上海へ

 

 戦火の中、親族を頼って上海へ

 テレサは米国人夫婦の子供ではない。二人は、ある在米中国人女性から依頼を受け、上海在住のその女性の母親に、まだ一度も会ったことのない2歳の孫娘テレサを託す予定だったのだ

ニューヨークで生まれて間もなく、テレサ(韓秀)(右1)は母親の意向で戦時中の中国に連れて行かれた。写真は、2歳の時ニューヨークで撮ったもので、2人の老人は当時のお手伝いさん夫婦(韓秀さん提供)

 テレサの将来に、米国人夫婦は不安だった。乗船する前、その中国人女性は2歳の娘テレサを邪魔者扱いしており、あまり気にかけていないようすだったからだ。それに、彼女の祖母が本当に戦火の上海に留まり、孫娘を待っているのかどうかも確信が持てなかったからだ。

 軍艦がやっと上海に着いた。人ごみの中に、テレサの祖母がいた。心配そうに巻き毛の幼い孫娘を待っていたこの老婦人は、とても上品で穏やかな人だった。米国人夫婦の不安がとけた。

 韓秀(テレサの中国名)は中学に入学して初めて、祖母から、自分はニューヨークで生まれ、父親のウィリー・ハンエンさんは米国の外交武官であることを知らされた。1943年から45年の間、父親は中国の抗日戦争を支援するため重慶に配属されたこと、母親は米国に渡った中国人留学生だったこと、そして、父親はニューヨークの病院で生まれて間もない彼女と一目しか会っていないこと、その直後に両親が離婚したことなどを聞かされた。

 祖母は国民党政府に追随して台湾に脱出する予定だったが、テレサを待ち受けるために上海に留まり、そして、一生中国から離れることがなかった……。

 「この学生は大学に入学させない」

 生まれつきの西洋人の顔つきにクルクルした巻き毛。韓秀がどんなにさわやかで愛らしくても、どんなに礼儀正しく物事をわきまえていても、どんなに優秀でも、中国社会には受け入れられなかった。あの時代のあの環境で、自分はどこまでも「よそ者」だったという。幸いにも、祖母から細心の愛情が注がれたため、まわりから敵と見なされても、韓秀は元気に成長した。お嬢様育ちで、

韓秀の祖母は、文学に精通し、日本の帝国大学を卒業した知識人で、幼少時の韓秀にとって唯一の頼りとなる存在だった(韓秀さん提供)

日本の帝国大学で経済学の勉強をしていた祖母は、幼い韓秀に「三字経」「千字文」などの伝統文化を学ばせ、人間としての基本的な道徳を教え込んでいた。

 韓秀の祖母は特別な女性だった。30代のときに夫を亡くして以来、ずっと独身だった。交通銀行と国民党政府に仕えたが、1949年以降北京に住み着いた。当時の中国共産党政府は彼女に、「あなたはまだ政府で働けるのではないか」と誘ったが、彼女は「私は古風な人間であり、一生一人の男性に嫁ぎ、一つの政府に奉仕する」と断った。その後、彼女は先祖から受け継いだ技術を頼りに、中国書店で本の修繕をして生計を立てていた。

 韓秀は少女時代を北京で過ごした。第12女子中学校から北京大学付属高校まで、彼女の成績はずっとトップだった。しかし、米国人との混血だという問題が影のようにずっと彼女に付きまとった。祖母は「しっかりと学校の勉強をこなせば、だれもあなたをどうすることもできません。そして自分自身を信じなさい。自分の行いが正しいと思えば、何を言われようと聞く耳を持たなくていいのです」と言い聞かせ、彼女はその言葉を心に刻んだ。

 あっという間に、彼女は17歳になり、高校卒業が目前となった。北京市からは優秀な卒業生に贈られる銀のメダルも獲得した。彼女は、大学の入学志願表の8つの枠すべてに、名門の「清華大学」と書き入れた。先生は彼女は正気じゃないと思った。米国人の血を引いていることから、大学に入学できるかどうかも問題なのに、そのうえ名門の清華大学だけではリスクが高すぎると説得された彼女は、志願表を訂正し、眼中にないいくつかの大学も書き込んだ。しかし、しばらくして発表された大学合格者の名簿には、彼女の名前は載っていなかった。彼女をとても可愛がっていた

米国の混血児の問題で、優秀な成績で高校を卒業したにもかかわらず、韓秀は中国の大学に入学できなかった。写真は17歳の時(韓秀さん提供)

数学の先生は、政府の関連機関を訪れて不合格の理由を尋ねた。

 先生が目にしたのは封された彼女の解答用紙。おもてには「この学生は大学に入学させない」というはんこが押されていた。彼女の解答用紙は採点すらされていなかったのだ。

 ほんとうに望みが無くなってしまったのだろうか。まもなく、学校の共産党委員会の書記が彼女を呼び出した。父親と一切の関係を絶ち、縁を切ると誓う声明文を書けば、大学に入学することができると告げられた。二百字くらいのもので十分だが、もし書かなければ山西省の農村に移住させるとも言われた。当時17歳の彼女は、党書記に「それならば、私は早く家に帰って荷造りをしなければならない」と言葉を返し、淡々とその場を去った。そして、彼女は北京市から農村に移住する中高生の第一陣となった。時は1964年だった。

 なぜ、彼女はこのような毅然たる態度を取ったのか。韓秀は当時を振り返り、絶対に父親を裏切ってはならないという思いがあったと語った。「私がはっきりと分かっていたのは、父が中国にいた1943年から45年までの間、米軍は中国を援助し、米国民も中国人民と一緒に日本に対抗していた。父はすこしも中国国民に背く行為をしていないのです」

 「絶対に裏切ってはならない」。とても簡単な言葉だが、あの時代にそれを全うできた人が何人いただろうか。

 「明らかに間違っているのに、強引かつ残虐に人間の運命を牛耳ろうとするこのような政権を前にして、17歳の弱々しい少女を支えたものは何だったのか。当時私は、人間としての信念を守ることさえできるならば、農村に配属されても、どんなに苦しくてもかまわない、人間は純粋な心を失ってはならない、と考えていた」と韓秀は語った。

天涯孤独

 

天涯孤独

 1964年、旧ソ連の最高指導者フルシチョフが失脚した年、そして、中国がはじめて原子爆弾の実験を行ったこの年に、韓秀は北京市の43人の若者と一緒に、遠く離れた山西省曲沃県鳳城公社臨城大隊に移住した。ここは棉と麦の生産地であり、毎日終わりのない農作業が待っていた。

 韓秀は毎日農民たちと一緒に畑作業をしていた。そのうち、村の放送員や小学校の教師も経験した。この時期、「社会主義教育運動」「四清運動」「文盲撲滅運動」などの数々のイデオロギー宣伝にも出くわした。このときの生活体験から、彼女は中国の農民を徐々に知り始めた。彼らは純朴で善良で、特に女性たちは困難な生活のなかでも、黙々と耐え忍びながら、元気に生きている。その強い生命力に、韓秀は心から感心し敬服した。

 しかし間もなく、文化大革命が始まり、このような平静な生活も保てなくなった。北京大学の学者・聶元梓が政府を攻撃する「大字報」を発表し、毛沢東が「指令部を砲撃する」という文章を発表して支持を表明すると、矛先は当時の国家主席・劉少奇に向かった。また、北京市の「紅衛兵」は、当時の全人大委員長・彭真の地元である山西省に突如入り、彭真の「古巣」に潜伏している「敵」を探し出そうとした。韓秀がいた県内でも、だれそれが逮捕された、だれそれが自殺したとの情報が絶えなかった。彼女が勤務する学校にも「大字報」が現れ、校内に帝国主義の米国と関係を持つ「スパイ嫌疑者」が隠れているとほのめかした。風向きが怪しくなったそのとき、新疆ウイグル自治区の生産建設兵団が人手を募っていると知った彼女は、新疆に移ることを決意した。どんなに苦労しても、拳銃を突きつけられるよりはマシだと考えた。

 小粒の種のように、時代の荒波に翻弄され、彼女はゴビ砂漠に飛ばされた。彼女はまもなく新疆生産建設兵団の「農三師第48団第5連」に編入された。その本部はタクラマカン砂漠の中心部に隣接するマルキト県にあり、彼女が所属する連隊はマラルベシ県にあった。

 結局、南新疆に丸9年留まった。とても辺鄙でまったく未開発の地区だった。風が強いときには、砂漠の砂が天地を覆い、視界はほぼゼロになる。人とぶつかっても相手の顔すら見えない、歩くどころか、地面に伏せながら前に進むしかない。

 住まいはじめじめした穴ぐらで、毎日ゆでた白菜と窩頭(トウモロコシ粉で作ったパン)ばかり。耐え難い極度の重労働で、いつも腰が折れるほど痛かった。しかし、どんなに苦しくてもどんなに痛くても、彼女は歯を食いしばって耐えるしかなかった。「当時の唯一の思いは、なんとしても生きること、生きたままそこから出ることだった。それが生活のすべてだった」と韓秀は語った。

 現地のウイグル人とも仲良くなった。自分たちの祖先はメッカの西から来たと考えているウイグル人たちは、韓秀がそれよりさらに遠いところから来たと知って、次第に好感が芽生え、身内として受け入れてくれた。現地の人々の宗教信仰への尊重と流暢なロシア語(現地の95%のウイグル人はロシア語を話せた)により、ウイグル人の信頼が得られた。漢族の言葉を教えてほしいというウイグル人の生徒も何人かいた。

 最も接しにくいのは兵団内部の人たちだった。文化大革命が始まってから、粛清運動は波のように次から次へと襲って来た。人々は身構えて押し黙るしかなかった。韓秀はまだ粛清の対象にされていなかったが、傍観者としてもとても心苦しかった。あるとき、兵団で闘争大会が開かれた。壇上で粛清の対象がひどく暴行されて血まみれになるなかでも、参加者のスローガンは依然として響き渡る。まさに「すべての牛鬼蛇神(文化大革命当時、粛清の対象を魔物化する用語)を一掃する」勢いだった。韓秀はとても見ていることができなくなった。口実を付けてその場を離れようとしたところ、隣の人がすぐに大声で叫んだ。「私はあなたの椅子を持って帰らないからね」。実は、この人は彼女が立ち去ろうとしていることを近くの民兵に知らせようとしたのだった。すると、彼女が立ち上がろうとしたその瞬間に、後頭部を銃の取っ手で強く殴られた。目の前が真っ黒になり彼女は意識を失った。再び目が覚めたのは3日後だった。ゴビ砂漠に放置された彼女は、体の大半がすでに砂に埋まっていた。痛みに耐えながら、彼女はようやく砂から抜け出し、這って兵舎に戻った。保健員は傷口に消毒液を塗ってくれるだけだった。あの一撃による体の後遺症は、数十年後も彼女を苦しめ続けている。

 「この9年の間に、非常に気骨があって信念を持つたくさんの人々があの国境地帯のゴビ砂漠に飛ばされ、そして、多くの人がそこで亡くなったのを目の当たりにした」。しかし、この時期の生活があったからこそ、彼女は中国社会、そして中共政権の本質を見極めることができたという。

 「彼らは、あなたが何かに疑いを持ち始めていると感づいたら、あなたを改造しようとする。改造できなければ、あなたを消滅しようとする。どうやって消滅するのかって?あなたをあるところに送り込むのだ。そこはとても辛く苦しく、しかも容易に命を落とす。そうすることで、徹底的にあなたの肉体を消滅させる。数十年間、中共の手段はまったく変わっていない。知識人のみならず、その他の各階層に対しても同じ方法だ。このやり方は絶えず功を奏してきたようだ」

 ※後半では、苦難の末、いかにして米国に脱出したかを中心にお伝えします。

 

 

(翻訳編集・叶子)