【大紀元日本10月21日】今年6月、湖南省在住の農民・陽湘正さんは不動産の不正押収問題を直訴するため北京を訪れていた。北京に到着したその夜、彼は正体不明なグループに拉致されて、河北省のあるレンガ工場で監禁されたうえ、奴隷工として重労働を強いられた。1カ月後、彼は脱出に成功し、闇工場での悲惨な状況をメディアに証言し、彼の拉致をめぐる不審な点が浮上した。
四川新聞ネットの記者は陽さんに取材してから、調査を行いそして一部始終を詳しく報道した。
陽湘正(57)さんは、同省邵陽市隆回県6寨都鎮泌水村5組の農民。その陳述によると、数年前、村の幹部は彼の所有する不動産を不法に他人に転売した。現地政府に問題の解決を訴えたが、一向に対応してくれなかった。そのため、彼は最高指導部への直訴を度々試みてきたという。
今年6月8日、彼は直訴するため再び極秘に北京を訪れていた。これこそ三度目の正直だ。
一回目の2009年8月のときには、彼は北京に向かう列車の中で私服警察官らしい人物から声をかけられた後、鉄道警察に身分証明書を取り上げられた上、北京到着後にそのまま地元へ強制送還された。
二回目の直訴は2010年の年初めだった。彼は再び北京にやってきて、最高指導部の直訴受付機関「国家信訪局」にやっと自分の被害状況を直に訴えることができた。しかし、その事案はやはり地元に戻された。「地元政府なんか、まったく法律に基づいての対応をしない。裁判所にも告訴したが、結果が出ないままだ」と本人は語った。
そして、今年の6月8日夜10時頃、彼が乗ったK968番列車は北京に到着した。駅を出て西口の広場で彼は野宿し、翌日には旅館に泊まり、今回の目的地「国家信訪局」を再び目指すつもりだったという。
不運なことはまさにこの夜中に発生した。
朝方の4時半頃、熟睡中の陽さんは1人の男に起こされた。「年齢は50歳ぐらいの小太り、優しそうな感じで悪い人には見えなかった。どこの出身かと聞かれて、会話を始めた」
「北の人間のなまりだった。ある工場が農民工を募集しており、月給は2400元と聞かされて、私の意向を打診してきた。近くに止まっていた白いワゴン車で詳しい話をするようにと勧められるまま、私はついて行った」
「ただ、聞くだけ聞いておこうというつもりだった」と陽さんは当時を振り返った。
男についてワゴン車に近づくと、突然、2人の怖そうな男が彼に向かってきた。「私は一瞬、やばいと気づき逃げようとしたが、もう手遅れだ。彼らは私を車に押し込み、車は急発進して現場を去った」
2人に押さえつけられた陽さんは最初のうち抵抗していたが、すぐに無駄な努力だと分かり反抗するのを止めた。
後ろを振り向くと後部座席に40代の男が座っており、ずっと黙っていた。「後で知ったのだが、彼も私同様に拉致されていた」
ある路地で車は再び止まった。また2人の男性が押し込まれた。「このとき、車中には7人がいた。そのうちの4人は拉致された人だった」
午前10時頃、車は河北省のタク州地区に入った。「別の待ち合わせしていた大きめの白いワゴン車に移された。車中には同じく拉致された様子の男3人がいた。1人は50代、1人は70代、もう1人は夜盲症を患っていた」
北京からの白いワゴン車は折り返した。「彼らは事前に打ち合わせして待ち構えていた様子だった。同じ組織の人間で、すべては計画された犯行のようだった」
大型ワゴン車は再び走り出した。午後2時頃、車は高い煙突のあるレンガ工場に到着した。ここが犯人たちの目的地だ。
2枚の鉄の扉を通って、7人は20平方メートル余りの宿舎に連れて行かれた。「三つの部屋がつながっていて、私たち7人は真ん中の部屋に閉じ込められた。寝床は木の板で組み合わせただけ。2頭の犬がいた。私たちはこいつらと一緒に寝床で雑魚寝した。一カ月余りいたが、一度もシャワーできなかった。とても辛い体験だ。いままで味わったこともない」
「私たちが来る前に、すでに2人が監禁されていた。1人は50代、1人は17か18歳の若者。十数日後に、さらに2人の若者が入ってきた。1人は20代、1人は30代。皆はほとんど交流していない。会話してはならない、相手のことを聞いてはならない、工場のことを探ってはならない、それらは鉄則だった。班長兼用心棒がいて、私たちの隣の部屋に住んでいる。24時間私たちを監視しており、一旦会話していると気づいたら、ベルトで鞭打ちしたり、電気警棒で殴ったりなどひどい暴行を振るった」
昼間は工場で重労働を強いられた。この用心棒はいつも長さ1メートル以上、幅約2センチの三角ベルトを手に現場で監視している。指示に従わなかったり、手抜きしていると思われると、すぐに殴る蹴るの暴力が飛んでくる。
陽さんによると、拉致された奴隷工たちは全員丸坊主にされて、その上、赤の上着とグレーの短パンという制服を着せられる。「丸で監獄の囚人服のようだ。非常に目立つため、労働中の逃走を防ぐためではないかな」と陽さんは言う。
この工場の労働者は2種類だという。雇われて給料をもらう現地の農民工は約20~30人いた。彼らは制服も着用せず、丸坊主もされない。自分の家に住んでいる。もう一種類は陽さんのような奴隷工。工場で労働と食事する以外、鉄門の宿舎に監禁されて、工賃ももらえない。
毎日の食事は饅頭と塩をかけただけのキュウリ、トマトのような生野菜ばかりだった。他にはジャガイモ、まれにトウモロコシのお粥がでるぐらいで、米のご飯は一度も出なかったという。
飢え、自由の剥奪、無償の重労働、このような状況において、逃走という言葉は常に奴隷工たちの脳裏に浮かんでいる。
夜盲症の男がまず行動に出た。ある昼間、用心棒が目を離した隙に、彼は逃げ出した。しかしすぐに捕まえられた。彼を待っていたのはひどい暴力だったという。その数日後、雨の夜、彼は再び逃走を図り、今度は成功した!
6月下旬には、最後にきた2人の男性も一緒に逃走できた。
「もう1人の50代の男性も夜、残業のときに逃げた。彼は出る前に私の足を軽く引っ張った。後になってみると、一緒に逃走しようとの合図だったのかもしれないが、そのとき、私は気づかなかった」
7月8日の正午、チャンスがやってきた。陽さんは昼休みの隙を計って脱出に成功したのだ。
下着に隠していた身分証明書と900元で、彼は7月9日朝8時に、呉橋県から北京に向かうK412番列車に乗った。
現地の人にいろいろと探った結果、自分たちを奴隷工にした工場は滄州市呉橋県の鉄城鎮城西梁村のレンガ工場であることを突き止めた。
「私が逃げ出してから、まだ4人は中にいた。そのうちの1人は70代の老人、1人は17か18歳の若者。この2人はいつもひどい暴力を振るわれたため、体が傷だらけで体力がすごく弱まっていて逃走する可能性はあまりない」
陽さんの頭部やももには、いまでもレンガ工場で暴力されたときの傷跡が残っている。「脱出したばかりのときは、体中にアザだらけだった。いまはようやく消えたのだ」と本人は言う。
7月中旬、北京に戻った陽さんは行方不明の父を探していた息子と語り合った。息子の証言によれば、彼は父の音信が途切れたら、すぐに北京西駅派出所に捜査願を出したが、状況を一通り訊問されただけで、その後、警察から何の連絡もなかったという。
7月17日、親子は湖南省の地元に戻った。妻から聞かれたあることで、陽さんは自分の拉致は直訴と関連しているのではないかと疑い始めた。「北京に直訴に出かけることは家族しか知らなかった秘密事項だった。6月9日の朝方、私は北京で拉致された。妻はそのとき、私が不測な事態に遭ったのを知るはずもない。不審なのは、この日の午前中、村中にある噂が広がった。『陽さんは北京に直訴に出かけて、逮捕されているのだ』という」
地元に戻った陽さんは翌日、派出所に通報した。「派出所の警官からは、もう二度と直訴しないという誓約書を書くなら、本案を捜査すると言ってきた。応じなかったため通報も受理されなかった」と陽さんは話した。
一連のことから、陽さんは、自分の拉致は直訴する行為に関連しているのではないかと疑い始めた。一方、記者はそのことについて、情報収集を試みたが立証はできなかったという。
10月、陽さんが提供した情報を元に、記者は疑惑のレンガ工場を訪れて調査した。
現地の農民たちは皆工場の裏事情を知っていたのだ。「中には多くの奴隷工が監禁されていて、真面目に働かないと鞭打ちのような暴力を受けるのだ」という。
記者の取材に対して、工場の共同経営者という男は、「皆1600元で買ってきたのだが、いまは全員逃げ出した」と話し、北京の拉致実行グループとは労働力売買の裏取引関係に過ぎないと主張した。
直訴者が一夜で奴隷工にされて、北京から河北省までに連れて行かれた。この裏はどういう背景で、どのような組織が動いているのか。
記者が現地の公安当局に訪れて問い合わせしたところ、本件の通報を受けてないとの理由で、調査していないとの回答を得た。
報道を出す直前に、陽さんは取材記者に電話連絡をしてきて、闇のレンガ工場を所轄する呉橋県公安局に通報すると言った。
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