北戴河会議は会議ではない

2016/08/22
更新: 2016/08/22

毎年7月末から8月初めになると、中国共産党の最高指導者たちは渤海を望むリゾート地北戴河に集まり、約3週間の夏休みを過ごす。過去30年間、中国の国政に関する多くの重大政策や人事議案は、この非公式会議で提起されたり決定されたりしてきた。このリゾート休暇は「北戴河会議」と呼ばれる。

今年の北戴河休暇もまた、大いに注目を浴びた。今年は党内人事、党機関の再建、財政経済問題などといった重要テーマが、この場で俎上に載せられるだろうと、まことしやかに噂されている。

北戴河は、北京市から東へ約300キロの河北省秦皇島市の海側にある一地域名で、近くには万里の長城の東端、山海関があることでも知られている、中国屈指の高級避暑地。地区内に流れる「戴河」という川が渤海に流れ込み、川の北側には風光明媚な砂浜が広がっている。1950年代に中央政府の指導者層のための避暑地として位置づけられ、その後いわゆる北戴河リゾート地が形成された。

 中国政治の裏舞台 リゾート地での非公式会議

北戴河が脚光を浴びるようになったのは、鄧小平時代からだ。この時期、指導者層は表向きには家族と共に休暇を過ごしていることになっているため、リゾート地内では管轄部門や所属階級などに関係なく気楽に訪ねあうこともできるし、すべての出来事は非公式なものとなる。

このリゾート地で、正式な会議や公の場所では触れることのできないテーマが、マージャンを打ちながら、あるいはお茶を楽しみ、雑談に興じたり、海水浴をしたりする中で取り上げられる。つまり北戴河はこの時期、共産党内部の各派閥が互いに探り合い、交渉や妥協を重ね、協調を図ってゆくための重要な政治の裏舞台となる。

だが毛沢東時代には、北戴河会議はさほど重要視されていなかった。時の最高指導者として絶対的権力を握っていた毛沢東は、自身が望めばいついかなる時でも、誰とでも会談が可能で、またいかなる「最高指示」も思うままに発表することができたため、幹部同士の非公式の会談や駆け引きは必要なかったからだ。

鄧小平時代になると、中国共産党は複数幹部による共同指導体制に移行したため、各派閥や利害集団がこの時期に非公式会談することが通例となった。そして多くの密約が、この北戴河会議でこっそりと交わされるようになった。

江沢民・胡錦濤時代にも、この慣例は引き続き踏襲されていった。毎年夏になると、各派勢力はいずれも資料を揃え、政治情勢の研究や、政敵・政友の動向や状況の分析に力を注ぎ、各派閥の表立った人物を通じて非公式の会談やさまざまな駆け引きを行なっていった。

しかし、習近平氏が国家主席に就任してからは、この慣例が変化しようとしている。過去2年間、夏の終わりになると、党内部からは習国家主席と王岐山氏の推進する腐敗撲滅運動が行き過ぎているとの批判の声が挙がり、両氏の反腐敗運動の勢いを抑え込もうとする意図が見え隠れする。

一方で、習主席と王氏は、この時期の前後に度々、大物の腐敗高官の告発や逮捕を発表したりして、「大トラ狩り」実行の固い意向を表明してきた。

今日では、党内における政治的な異論はほぼ影を潜めたかのようにも見える。しかし、実際には、こうした思惑は社会や経済、あるいは国際社会からの圧力といった別の形を取りながら、今も中国社会に表面化し続けている。経済面や外交面で中国が抱えるさまざまな問題が、今年も北戴河会議の非公式会合における主なテーマとなっていることは間違いない。

秦皇島が島ではなく、中南海が海ではないのと同様に、北戴河も川ではない。そしてこの北戴河で行われる「北戴河会議」もまた、決して「会議」ではないのだ。中国の政治が不可解な理由は、まさにここにある。

(翻訳編集・島津彰浩)