死傷者1万人超とされる、「六四天安門事件」はまもなく30周年を迎えようとしている。自由を求める丸腰の学生や市民らに中国当局は銃口を向けた。事件は時間とともに風化しつつある。当局の情報封鎖で今の中国の若者は事件の存在さえ知らない。事件の様子をカメラに収めた、当時19歳の大学生、劉建(Jian Liu、仮名)さんですら、この30年でフィルムの存在を忘れていた。
このほど劉さんは大紀元の取材に応じ、2000枚に及ぶ貴重な写真を大紀元に提供した。
50日間
毎年6月4日、「六四天安門事件」を記念するイベントが海外で開催される。しかし、「中国では、人々は天安門事件を思い出したくないし、当局も人々に忘れてほしい。天安門事件は人々の記憶の中からだんだん消えつつある」と劉さんは言う。
数年前、アメリカに渡った劉建さんは、少しずつ心の奥にしまい込んだ記憶を取り戻した。劉さんは今年の6月4日は事件の30周年記念日だと気づいた。30年前、天安門広場で50日間カメラを構え続け、当時の様子を撮影したのを思い出した。
「フィルムはどこだ?どこに置いたか?現像できるのか」と心配していた劉さんはこの2カ月後に、分厚いほこりを被った大量のフィルムをやっと見つけた。しかも、フィルムはきれいに現像できた。現像された写真に劉さんは再びショックを受けた。記憶がよみがえった。あの時の衝撃的な出来事が、次から次へと昨日のことのように鮮明に思い浮かんだ。
写真の中の天安門広場は人で埋め尽くされていた。あどけなさが残る学生らの顔。あの時代、携帯電話もないし、アイドルもいなかった。しかし、学生らの愛国の心は燃えていた。彼らは期待に満ち、努力もしたが、最終的に自らの血を流し命をささげることになった。
劉建さんの写真のなかに、天安門広場の近くにある小さい病院で撮った学生の遺体の写真がある。
「6月4日の早朝、他の人とこの病院に入った。病院は水利部(省)傘下の医療機関だ」「撮影した遺体は激しくは損傷していない。銃弾は頭ではなく身体に当たったからだ。もう一つの部屋に置かれた遺体は激しく損傷していたので、怖くて撮影する勇気すらなかった」
当時、劉さんはまだ19歳。親族の葬式以外に、死体を目にしたことはない。マシンガンで手足が切断された遺体、戦車に押しつぶされた遺体、劉さんは目を覆いたくなる思いだった。
「ショックで私は頭が真っ白になった!悪夢だった。平和な世の中で、学生たちは自由を求め、より良い国を望み、政府に陳情しただけだ。彼ら(中国当局)が軍を投入し銃弾で学生を鎮圧するとは、誰もが予想しなかった」
「軍は国民を守るための軍であるはずなのに、市民をあのように銃で鎮圧した!私の頭は本当に真っ白になった。理論上も常識的にも、人道上もそれを理解できなかった。これは人間の行為ではない」
「(武力鎮圧の後)その場にいた市民らは、獣にも劣る行為だと大声でののしった」
劉建さんは銃声が響くなか、家まで走って逃げた。その後、劉さんは中国当局にフィルムを没収されないように隠した。以後30年間、撮影したこともフィルムのことも、記憶の深い底に封印した。
洗脳
劉建さんは胡耀邦・元党総書記が死去した1989年4月16日の翌日から、6月4日の早朝まで、毎日天安門広場で撮影し続けた。カメラでこの歴史的な事件を記録した。
たとえば、中国共産党機関紙・人民日報が同年4月26日の1面トップに、学生らの陳情活動を「動乱」と非難する社説を掲載した後、27日学生らが大規模な抗議デモを行った経緯もカメラに収めた。
劉さんによると、当時の天安門広場は共産党の支配を受けない社会集団であった。「警察官もいなかったので、学生らは自ら治安を維持した。犯罪は全く見られなかった。市民も学生らの陳情活動を支持したので、学生に食べ物、飲み物、防寒服などを提供した」
劉健さんは、なぜ今このような人が中国で見られないのかについて、中国共産党の洗脳と関係があると話した。
「(天安門事件のことを)知らない人に対して、国内の政治情勢や共産党政権がとても素晴らしいとうそや虚言で洗脳する。知っている人に対しては、家族や親友の命までも脅迫して恐怖を与える。同時に、共産党は中国国民に対して、金もうけだけに集中するよう洗脳する」
劉建さん自身も今まで、会社の経営と不動産や株式の投資に没頭していたという。
「国内にいる私たちは本当にこの歴史を忘れた。共産党は意図的に国民に忘れさせようとしている。洗脳を受けた国民も自動的に忘れようとしている。悲しいことだ」
きっかけ
2016年、アメリカに移り住んだ劉建さんは、自由に報道や情報にアクセスできるようになった。
ある日、劉健さんは娘に「六四(天安門事件)を知っているか?」と聞いた。「六四ってなに?」という娘の反応に劉さんは驚いた。他の友人の子どもに聞いても、知っている人はいなかった。
歴史の真相が永遠に闇の中に葬られてしまうことを恐れた劉さんは、30年前に撮った写真を公開しなければならないと思い始めた。
「幸い私は写真を持っていたので、それを公開する責任があると感じた。子どもたちや多くの人に、あの時、天安門広場で何が起きたのか、学生や市民や軍人らはどんな様子だったのかを知ってほしい」
劉さんは、当時学生らは非常に温厚だったと話した。「共産党反対とかのスローガンはなかった。しかし、鄧小平は20年間の(共産党体制)安定を維持するために20万人を殺してもよいと言い出したのだ」
劉建さんはこの2000枚以上の写真の公開を大紀元時報に託した。アメリカにいる友人が劉さんに大紀元時報を薦めたという。友人は他のメディアに写真を公開すれば、中国共産党による海外での浸透活動で、劉さんの身の安全が危険にさらされる可能性があると言った。
劉さんは「私が撮った写真は、中国共産党が犯した罪を証明する証拠のごく一部でしかない」と話した。
(記者・施萍、翻訳編集・張哲)
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