大紀元時報

特別リポート:五輪がやってきたサーフィンの町、覚めた夢と未練

2021年7月21日 16時44分
五輪のサーフィン競技が行われる千葉県一宮町で、波に乗るサーファー。1日撮影(2021年 ロイター/Issei Kato)
五輪のサーフィン競技が行われる千葉県一宮町で、波に乗るサーファー。1日撮影(2021年 ロイター/Issei Kato)

[いすみ市(千葉県)20日 ロイター] - 太平洋に沿って長い砂浜が続く千葉県いすみ市。太東ビーチに阿出川輝雄さん(78)が到着すると、サーファーたちはすぐに彼の姿に気付く。アロハシャツとショートパンツ姿の阿出川さんは、助手席に杖を残したまま、ゆっくりと車から降りた。

日本サーフィン文化を育てた先駆者の1人で、「テッドさん」の愛称で呼ばれる阿出川さんは、18年前に患った脳内出血でマヒが残る体にもかかわらず、この1年間、自宅近くの砂浜でゆっくりと早朝のジョギングを続けてきた。

同市周辺には、プロサーファーも集う様な素晴らしい波が押し寄せるビーチが広がる。隣接する一宮町ではオリンピック初開催となるサーフィン競技が行われる。

東京五輪は、半世紀に及ぶ阿出川さんのサーファー人生の集大成となる出来事だ。コロナ下でもジョギング訓練を続けたのは、地元で行われる聖火リレーに何としても参加したいという思いからだった。

「あれは残念だったですよね」。長年の知り合いである堀本太一さん(60)がサーフィンを終え、濡れた体でやってきて阿出川さんに話しかけた。「ずっと走って鍛えていたのに」

待ちわびた聖火リレーは、新型コロナの感染拡大の中、紆余曲折の末、走行中止が決まっていた。

「一所懸命やってたからさ、悔しいけど」。阿出川さんは言葉少なに答え、堀本さんのボードを見やった。

<失われた高揚感>

東京五輪は開会式まで秒読み段階に入った。しかし、世界的なパンデミック(爆発的な感染拡大)が続いている。スポーツを通じて世界の人々を結びつけるというオリンピックの理想とは程遠く、東京大会は高揚感よりも懸念と不安に彩られた異例のイベントになりつつある。

コロナ下でも競技は観客を入れて行われる方針に一度はなったが、開催まで1カ月を切った7月初旬になって、ほとんどの会場で競技の無観客開催が決まった。一宮町のサーフィン競技も、人を入れずに行われる。

地元の子どもたちに聖火リレーを観てほしかった。サーフィンを始めようという気になる子どももいるかもしれない。そう願っていた阿出川さんにとって、聖火リレーの走行中止がいち早く5月末に決まったことは「拙速」と映った。

新型コロナ感染症のリスクがあるとはいえ、リレーは屋外イベントであり、観衆が互いに間隔をとれば問題はないだろう、と思っていたからだ。

リレーに代わって阿出川さんが参加したのは、地元から離れた町で行われたステージ上の式典だった。鉛色の空の下、マスクを着用し距離を置いて並ぶ他の聖火ランナーたちの前で、阿出川さんはほんの1分ほど手に持ったトーチに聖火を灯しただけで、すぐにステージを離れた。

一宮町のサーフィン会場にも、五輪初開催という歴史的な瞬間を待つ高揚は感じられない。イベントのポスターなどはほとんど見られず、会場は金属製のフェンスで隠されている。ゲート前には警備員が身構えている。

阿出川さんは一度、会場の中に入れないか声をかけてみたが、丁重に断られた。

「あそこさ、だれでも入れるの?」と阿出川さんに聞かれた堀本さんは、「いや、分かんない」と答え、恐らくそのエリアは五輪に参加するアスリートとスタッフしか入れないと言葉を添えた。

「日本で、しかも千葉でやるんだから、もう二度とあり得ないじゃない」と、返した阿出川さんの言葉に力がこもった。だから、本当は自分の目で見たい、と願っていたのだという。

<サーフィンのメッカ支える誇り>

阿出川さんがサーフィンを覚えたのは、東京で前回の五輪が開催された1964年、まだ大学生の時だった。日本は世界中の注目を集めていた、と阿出川さんは語る。

初めて旅したカリフォルニア。サンタモニカで目にした若者たちのカラフルなショートパンツと絞り染めのTシャツ姿に魅了された阿出川さんは、すぐさまサーフィンの虜になった。

その後もサーフィンにのめりこみ、自分のボード工房を東京・神田に開いた。ついには自分の店も開き「テッド・サーフショップ」と名付けた。「もう眠る時間もないぐらい働いて、全国に(サーフィン用品を)出荷しまくってた」と阿出川さんは言う。

1970年に移り住んだいすみ市には、黒く重い砂が緩やかな曲線を描くサーファー好みのビーチがある。波は安定しており、岸に届くまで崩れることなく、静かに消えていく。

移住後、数十年にわたり、阿出川さんは日本最初のサーフィン・チームのスポンサーを務め、史上初の大会開催に関わるなど、世界各国のサーファーを日本独特のサーフィン文化に紹介していった。今日では、彼は日本の現代サーフィンの先駆者の1人として知られている。

自分たちがここに来てサーフィンをやり、世界中から友人たちを連れてこなければ、この地域の今のような姿はなかっただろう、と彼は誇らしげに言う。

五輪初のサーフィン競技が自宅のこれほど近くで開催されることを知ったときは、「何と恵まれていることか」と思った。

世界中から観客が訪れることを期待して、阿出川さんと妻の百合子さんは、いすみ市の幹線道路沿いに小さなサーフィン・ミュージアムを開設した。壁には、近隣のビーチで技を競い合うサーファーたちの写真が額に入れて飾られている。

先日、五輪主催者側から阿出川さんに連絡があり、会場に展示するため、彼が作ったビンテージボードを借りられないかと依頼があった。阿出川さんは、依頼に応じれば観戦チケットをもらえるのではないかと内心期待したが、無観客開催が決まったため、会場に入れる可能性はほとんどなくなってしまった。

「とにかく、いまは(競技の時に)良い波が来てほしいと願っている」と阿出川さんは言う。

<良い波は来る>

一宮町の町議会議員を務める鵜沢清永さん(45)は、競技会場となる同町の釣ヶ崎海岸から道1本隔てた自分のサーフショップで頻繁に「ヤフー天気」をチェックしていた。取材に訪れた6月の終わり、釣ケ崎には具合のいいブレイク(波の崩れ)を起こしてくれるような海底のサンドバー(砂溜まり)がなかった。もし台風が来てくれればビーチから海に砂が移動してサンドバーが出来、競技に理想のコンディションになるのにと、祈るような気持ちで天気予報を眺めていた。

「もちろん心配だよね。招致活動してて、波は完璧ですよ、ここでやって下さいよって言ったはいいけど、大会当日にダンパー(一気に崩れてしまう波)で全然良くないって言われたら大変じゃん」と、鵜沢さんは言う。

地方政界に転じるまで、ハワイにまで大波に挑みに行くようなサーファーだった鵜沢さんは、五輪がどれだけ地元にプラスになってきたかを目の当たりにしてきた。競技会場に決定して以来、地元の農家が沿岸に所有する土地は値上がりし、一宮町はサーフィンが地元経済を活性化させる鍵になると考えている。

だが、熱心に五輪を待ち望んでいる鵜沢さんでさえ、コロナ対応や観客の受け入れを巡る五輪主催者の迷走には困惑している。

地元の子どもたち1000人近くがサーフィン競技の観戦に招待されたが、感染拡大のため、計画は中止されてしまった。

<「組織委があてにならない」>

いすみ市の「九十九里ヴィラそとぼう」には、サーフィン競技期間中、五輪参加選手が滞在することになっている。人がいないロビーにアニメ映画音楽のオルゴールの音色が流れ、季節外れのクリスマスツリーのLED電飾が青い光を単調に点滅させていた。

「(選手が泊まったということが)宣伝になるかというと、逆効果なんじゃないか。選手なんか泊めて(コロナ感染は)大丈夫なのかって、しばらくお客さまが来なくなるんじゃないかと思う」。総支配人の杉本春枝さん(73)はこう話す。

選手を受け入れる契約に署名してから2年近く、組織委員会側から杉本さんには何の連絡もなかった。今年の五輪は中止になると、杉本さんは踏んでいた。

ところが5月末になって、フランス選手団から杉本さんのもとに緊急の要請が入った。外で食事することができなくなったため、選手に毎日食事を準備して欲しい、というのだ。大会主催者はコロナの感染防止対策をまとめた「プレイブック」で、飲食店を避け、可能であれば1人で食事をとるよう選手に求めている。フランスのオリンピック委員会はロイターに対し、ホテルは組織委員会が手配したもので、選手団が日本で一般の人と接触することはない、とメールで回答した。

杉本さんのもとには、組織委員会側から大小さまざまな要請のメールが夜遅くまで入るようになった。6月末には新型コロナウイルス対策関連の10ページの書類が届き、それに付随する確認書に3日以内に署名して返送するよう求められた。結局何人の選手が宿泊するのか、杉本さんは7月中旬になってもまだ聞かされていなかった。

「五輪って、もっとすごいものだと思っていた。でもいざやることになったら、こんなにでたらめなんだと。安心して日本に来てくださいと上の方では言っているけど、こういうホテルの施設や現場では何も決まっていない」。丁寧にセットした髪を少し揺らしながら、杉本さんはこぼす。

「私、神経図太いんですけど、もしかしてうつ病になっちゃたかしらと思って」。仕事に行きたくない朝もあるという。

組織委員会は、安全で安心な大会の開催に向け、各自治体やステークホルダーと緊密に連携しているとしている。ロイターがメールで送った質問に詳細な回答はなかった。

「選手にはいい試合をしてほしい。ただ、もう組織委員会はあてにならないって分かりましたから」

外を見ると、ヤシの木が強い風に揺れていた。雨が降りそうね。杉本さんが、ぽつりと言った。

<サーフィンは癒し>

阿出川さんは、60歳で脳内出血で倒れた後、医者からは再び歩けないかも知れないと宣告された。冷たい海でサーフィンするなどもってのほかだ、とさえ言われた。

そんな言葉は気にも留めず、阿出川さんは1年間、大好きなビーチへ毎日歩いて行くことを自分に課した。そして再び海に戻ることも自分に誓った。やがてサーフィンも再開したが、コロナ禍の影響で昨年はほとんど波に乗れなかった。

「サーフィンには、すごく癒されるんだよ」と、波を待つサーファーたちを眺めながら、阿出川さんは言う。

思い出すのは、ハワイで目にした光景だ。手や足を失った退役軍人たちがサーフィンに興じていた。波を捕まえると、彼らの表情はパッと明るくなった。脳内出血から復帰した阿出川さんは、障害がある人でもサーフィンを楽しめる環境を整えるため、一般社団法人「日本パラサーフィン協会」を立ち上げた。

阿出川さんは時折、五輪競技になることで、サーフィンの精神が失われるのではないかと心配することがある。

最近、波をつかまえられなかった子どもを叱って泣かせてしまう親たちを目にするようになった。熱心さのゆえかもしれない。そうした親たちは、子どもたちがサーフィンする様子を浜からスマートフォンで記録し、後で子供たちに見せながら改善点を指導していた。

「サーフィンって、そういうもんじゃないんだよね」。そう言うと、阿出川さんは口をつぐんだ。

雨が降り出した。重く、湿った空気の遠くに、五輪サーフィン会場の建物がぼんやりと見える。すると、ちょうど波が大きくうねり、白い波しぶきが飛び散った。1人のサーファーが優雅にそれを捉え、ボードの上に軽やかに立ち上がった。

そのまま海辺まで波に乗って行く様子を、阿出川さんはほほえみながら眺めていた。

(斎藤真理、村上さくら、翻訳:エァクレーレン、山口香子、編集:北松克朗)

ご寄付のお願い

クレジットカード決済

※銀行振込での単発寄付はこちら
^