日本人を陶酔させた「日中友好」
1972年9月29日、日中国交正常化の起点となる日中共同声明が北京で調印された。
その調印式に先立つ25日の食事会で、中国の周恩来首相が自ら箸をとり、日本の田中角栄首相へ卓上の料理を取り分けている有名な写真がある。田中首相は、左手を拝むように挙げ、周氏の親切に謝意を示している。
そのほほえましい光景のように、その後の日中間の万事が済んだなら、あるいは良かったのかも知れない。もちろん現実の歴史は、そうはいかなかった。50年後の2022年まで刻んだ日中関係史は、特にその後半において、大変な波浪をきたすことになる。
72年10月、北京動物園から東京の上野動物園へパンダ2頭が贈呈されるに至っては、日本人の心は「日中友好」の甘美な夢にすっかり酔わされた。
動物園の正門をくぐり、入園してすぐ右側の、このために新築されたパンダ舎の前には、2時間待ちの長蛇の列ができた。大群衆に驚いた子供が、あちこちで泣き出していた。
パンダがこれほど外交の道具になるとは、日本の反応を見て中国側も驚いたのではないか。なお1984年以降は、海外の動物園へ送られる中国のパンダは贈呈ではなく、有料の「貸与」になっている。
なお、その前の1950年代から60年代には、中国遼寧省の撫順戦犯管理所に収容されていた元日本軍将兵による手記がまとめられ、日本で出版されるなどした。
収容所内での元将兵には十分な食事が与えられ、シベリヤ抑留者に課せられたような強制労働はなかった。獄中で死亡したもの以外、数年以内に全員が周恩来総理の恩赦によって釈放され、無事に帰国できた。
ただし彼らには、中国語で「改造」という洗脳が行われていた。彼らが帰国後に語った証言や手記は、のちに中国に対する日本人の贖罪意識を後押しすることになる。
日本人に見えなかった「真相」
72年当時、中国では、まだ文化大革命(文革)という政治闘争が続いていたが、一般の日本国民はその真相をほとんど知らなかったと言ってよい。この場合の真相とは、表層の現象や政治理論ではなく、「実際そこで何が起きていたか」ということである。
実際、日本の中国研究者や大学の中国語教師であっても(人によって程度の差はあったものの)文革を称賛あるいは容認していた人も少なくない。
もちろん、例えば当時の中国語学習は方法が非常に限られており、『人民日報』や短波ラジオの北京放送をそのまま教材にしていたという事情もある。そうした結果として、多くの場合、中国共産党を肯定的に受け入れていた。
文革の中国でどれだけの人が殺され、何の罪もなく悲惨な目に遭っていたか。
そのことを正確に知り、さらに中国共産党のもつ恐るべき悪魔性に気づいていた日本人は、当時ほとんどいなかったと言っても過言ではない。記者自身もふくむ日本人の「その時の無知」を、いま反省とともに述懐している。
日本人「残留孤児」の帰国
続く80年代に中国関係で日本国民の関心を特に集めたことと言えば、「中国残留日本人孤児の帰国」であった。当時、連日にわたってNHKおよび民放テレビで放送されたのが、残留孤児の肉親捜しと感動的な再会、日本のふるさと帰りの場面であった。
テレビに映っていたのは、戦後40数年の時を隔絶された巨大な悲しみであったに違いない。ただし、一方で日本人は、それをどこか「感動的なドラマ」として見ていたのではないか。
テレビに映るそうした多くの場面は、置き去りにされた日本人孤児を養育してくれた中国人および中国に対する感謝の念にちかい感情を日本人の心に招いた。実際のところ、慈悲深い養父母のおかげで比較的恵まれていた孤児の例も、ごく少数はあった。
しかし、多くは農村の貧困のなかにあり、ときに人身売買され、また日本人の子供であることでいじめや迫害を受けた。文革中には、その命にも危険が及んだ。そうしたことが、テレビに映る「初老の孤児」の口から語られることはなかった。親族が、まだ中国にいたからである。
「中国を孤立させない」は正しかったのか?
1989年6月4日。正確には3日深夜から翌未明にかけて、北京天安門広場で民主化を要求する学生や市民に対し、武力弾圧する「六四天安門事件」が起きた。
その前日の6月3日に、日本では、宇野宗佑氏を首相とする新内閣が発足している。
「六四」のあと、西側諸国が中国に対して経済制裁を発動するなかで、新首相である宇野氏を擁する日本は「中国を孤立させてはいけない」という独自の立場をとる。
同年7月に仏アルシュで行われたサミットでも、日本は、主要各国に同様の意見を提示した。また、円借款凍結などの対中経済制裁を、他の西側諸国に先がけて解除した。それがその時の、日本の政治判断であった。
宇野氏は、その後に行われた参院選の惨敗(というより自身のスキャンダル)によって辞任に追い込まれ、69日間という短命内閣に終わる。宇野氏は、首相辞任後の1990年5月に訪中した際、当時中共トップの江沢民から「前年の謝意」を受けている。
いずれにしても、その後の歴史が明示した結論は「日本が、中国共産党に善意を示しても、ことごとく裏目に出る」ということであろう。
とくに江沢民以降の中共中国は、かつて日本が期待した「自由世界へのソフトランディング」など微塵も見せず、ひたすら膨張的な大国主義へと走った。また国内においても、恐るべき暴力と腐敗、想像を絶する人権迫害がまかり通ることになる。
「中共、許さず」の気骨ありや
来月、9月29日には「日中国交正常化50周年」の記念式典が、東京オペラシティで開催されるという。どう考えても懸念しか湧いてこないが、一体どのような式典になるのか。
その他の各行事で、たとえ「日中の民間交流」をうたっていても、中国に純粋な民間はないことを日本側は知っておいたほうが良いだろう。
そのほか、外務省ホームページにある「日中国交正常化50周年事業カレンダー」を見ると、今年1月から年末の12月まで、ざっと数えて85の「日中友好関連事業」が予定されている。
中国、というより中国共産党を相手とする「友好イベント」が85もあるとは、まさに暗澹とする思いである。
先月の参院選直前に、元首相である安倍晋三氏が暗殺されるという衝撃的な事件があった。それを受けて、与野党を問わず、どの候補者も「自由と民主主義を断固として守る」という決意を、ときには涙を浮かべ、握るマイクを震わせながら叫んでいた。
しかし、今年9月「日中国交正常化50周年」となることに言及して、日本周辺の局地的な安全保障だけではなく、中国共産党の本質に切り込んで「中共、許さず」を真正面から問題提起した候補者がどれほどいたであろうか。
言い替えれば、「台湾有事は日本有事」と明言した安倍氏の気骨を、誰が本当に継承するかという喫緊の課題でもある。
再度問う。日本は、このまま「中共に歓迎される日本」で良いのか。
日本が実体験した50年の歴史が、すでに答えを出しているはずである。
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