「飛鳥(とぶとり)の明日香(あすか)の里を置きて去(い)なば君が辺(あたり)は見えずかもあらむ」。
『万葉集』に見られる一首である。作者は持統帝とも言われるが、はっきりしない。
飛鳥大坂は「荷車泣かせの難所」
歌意は「飛ぶ鳥が、明日香の里を後にして去っていったなら、もう君のいる辺りを見ることができなくなるのでしょうか」。藤原京から平城京へ遷都(710)するに当たり、その故地である明日香の里を振り返り、懐かしく眺めながら詠んだ歌らしい。
日本語の「あすか」に飛鳥(ひちょう)という漢字を配するのは、ずいぶん無茶な当て字である。それでも「飛鳥(あすか)」の地名は、日本人が好む独特な響きをともなって全国各地へ広がった。現代では、子供につける名前や豪華客船の船名にもなっている。
そんな地名の一例であろうか。東京の飛鳥山(あすかやま)と言えば、江戸期以来、東京では知らない人はいない桜の名所といっても過言ではない。
JR王子駅から、飛鳥山公園を左に抱いて、大きく南へカーブしながら上る坂がある。
飛鳥大坂(あすかおおざか)と呼ばれるこの坂は、江戸時代から都内有数の難所で、当時はまさに荷車泣かせの急勾配であった。この場所で荷車を押し上げて手間賃を稼ぐ、客待ち人夫もいたという。
今日では、もちろん舗装された広い道路で、勾配もだいぶ緩やかになっている。今では都内に1線だけ残る路面電車もこの坂を通るので、自動車と路面電車が一緒に走る懐かしい光景が見られるのも嬉しい。
路面電車は「東京さくらトラム」という新しい名称になっているが、昭和中期の風景に記憶がある人にとっては、やはり都電(とでん)と言ったほうが耳になじむ。
「飛鳥山に桜を植えよ」は将軍吉宗の心意気
享保の改革によって幕府中興の祖となった第八代将軍・徳川吉宗は、町医者であった小川笙船(おがわしょうせん)の目安箱への建議を採用し、小石川養生所を設立して貧民を対象とする慈善医療を行った。
また吉宗は、町火消しの「いろは47組」を定め、火災の起きやすい江戸の防火の主力部隊として、その任に当たらせた。
これは同時に、小気味のいい江戸町人の主体意識を育てることにもなった。俗に言う「江戸っ子」の誕生である。火消しの花形である纏(まとい)持ちには選りすぐり美男子が当てられ、各組が盛んに粋(いき)と男ぶりを競ったという。
同じく、吉宗が命じて行った民生上の大功績の一つに、飛鳥山や隅田川堤に桜を植え、江戸の庶民が花見を楽しめるようにしたことが挙げられる。
当時の桜は古種のヤマザクラで、昭和の戦後に多く植えられたソメイヨシノではないが、300年後の現代につながる「日本人の花見文化」を形成してくれたことは、令和の庶民である私たちも、テレビドラマではない史実の吉宗公に、大いに感謝してよいように思う。
それというのも、豊臣秀吉が最晩年に「醍醐の花見」を盛大に催したように、花見とは本来、庶民のものではなかったからだ。それが、古典落語「長屋の花見」に見られるような、名もない庶民の娯楽になったのは、やはり江戸期ならではの産物であったと言ってよい。
今はまだ冬の時季である。飛鳥山が桜に包まれる令和5年の春を、楽しみに待とう。
(鳥飼 聡)
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