「お前は鈴木か」バンに押し込まれ、そのまま7か月拘留…友好人士の6年間

2023/11/13
更新: 2023/11/13

「お前は鈴木か?」「そうだ」。日本への帰国便に搭乗するため、北京空港のターミナルを歩いていると、突然現れた数人の男に取り囲まれ、白いバンに押し込まれた。

日中青年交流協会の元理事長、鈴木英司氏は7年前、空港で起きたこの出来事を今でも鮮明に覚えている。長年、両国の友好のために尽力してきた“友好人士”は突然、スパイ容疑で拘留され、その後逮捕され、中国で6年以上の獄中生活を強いられた。

昨年10月に刑期を終えて出所し、帰国した。独占インタビューに応じた鈴木氏は、中国共産党による恣意的な法執行や、非人道的な勾留について詳細に語った。

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酷く暑い夏の午後だった。2016年7月15日、友人との食事を終えた後、鈴木氏は北京市内のホテルを出てタクシーを呼び、日本帰国のために北京空港に向かおうとしていた。その日、ホテル前にはタクシーがいなかった。しかし、道路の向こう側には白いタクシーがおり、運転手は手を振って鈴木氏を呼んでいた。

「北京のタクシーは青か緑が多いので、白いタクシーはめずらしい。しかも運転手が手を振っていたので、ちょっと奇妙だった。気温が40度もあって、ただ早く車に乗りたかった」。 

タクシーに乗り込んだが、運転手は走行ルートをたびたび外れた。注意したものの、携帯電話をいじるなどして、聞き入れようとしなかった。

鈴木氏は訪問団を率いて中国に200回以上訪れ、中国の大学でも教鞭をとっていた。しかし、この夏の日から、すべてがこれまでとは違ったものとなった。

空港に到着すると、鈴木氏は5、6人の大柄な男に囲まれた。彼らは自分たちを「北京市国家安全局(国安)の職員」と名乗り、北京市国家安全局長の名の入った拘留許可証を示した。拘束の理由は「スパイ」だった。

突然のことで頭は真っ白

「頭は真っ白になった。大変なことに巻き込まれたと思った」。鈴木氏は言った。携帯電話や財布などの持ち物は没収され、アイマスクをされた。当時は、「多分少し尋問されたら放されるだろう」と安易に考えていた。車は約1時間走り、ある建物の前に停まった。

後に知ることとなるが、そこは北京市国家安全局が豊台区に秘密裏に設けた監禁施設だった。ここで7か月間もの「居住監視」を受けた。6年間の監禁生活の中で、この7か月間が最も苦痛だったという。

施設は中国で一般的な宿泊施設のような作りだが、部屋にはテレビも時計もなく、黒いカーテンが常に閉められており、外が見えず、日付も分からない。電灯は24時間ついていた。作りは少し古く、ベッドとテーブルがある以外に、洗面台、トイレ、シャワーがあった。

何も身を隠すようなものがなく、すべてが監視者の目にさらされていた。部屋の四隅には監視カメラがあった。看守は毎日2人ずつ適宜交代し、鈴木氏の一挙手一投足をソファに座って監視していた。

鈴木氏の部屋は502号室で、尋問は斜め向かいの504号室で行われた。3人いる看守のうち主席が鈴木氏に自らを「老師(先生)」と呼ばせた。

鈴木氏がここで問い詰められたのは、主に鈴木氏が知っている中国共産党の高官や日本人についてだった。この「老師」は、著名な中国問題の専門家が何を研究しているかに興味を持ちながら、「中国問題に彼らの研究は必要ない!」と厳しい言葉を言い放ったことがある。

近年、日本の中国研究者が中国で逮捕されるケースが複数発生し、中には今も釈放されていない者もいる。

ある日、一人の看守が鈴木氏に「私のことを覚えているか」と尋ねた。鈴木氏は驚いた。それは2010年に行われた日中植樹活動のボランティアで参加していた人物だった。鈴木氏は「両国政府が行う日中友好活動でさえ、国安の人間が監視していた」と振り返った。

彼の行動範囲は、7か月間、その2つの部屋に限られていた。尋問以外では誰とも話せず、日中は太陽を見ることもできなかった。ある日、鈴木氏は我慢できずに太陽の光を浴びたいと要求し、許可を得た。廊下の窓から1メートル離れた場所に移動できたが、もっと窓に近づいて外を見たいと前へ進むも、看守に止められた。「窓の外の景色から、この秘密の施設の位置が明らかになるのを恐れていた」という。

15分間太陽の光を浴びることを許され、涙が止まらなかった。それは7か月余りの監視居住期間中、唯一太陽の光を見た瞬間だった。

「私は監視居住、看守所、刑務所の3つの段階を経験した。監視居住が最も非人道的で、人権への最大の侵害だった」と、鈴木氏は込み上げる怒りを抑えつつ語った。

いつの日か 世界の大国に

半世紀も前のことだ。「いつの日か、中国は世界の大国になる」との中学時代の教師の言葉は、鈴木英司氏に刺激を与えた。大学卒業後、全国農業労働組合に入り、社会主義国家との交流を主に担い、労働組合の上位団体が中国の労働組合と関係を築く頃、その事務局に入った。これをきっかけに中国に渡航する数を重ねた。

鈴木氏は中央政治局常務委員など歴任した喬石氏や、中央統一部副部長の張香山氏とも面会した。その後、中央統一部、共青団中央、文化部で人脈を広げ、多くの中国共産党の高官と接触した。

広い人脈から「中国通」として知られるようになり、鈴木氏はやがて日本大使館や新聞記者、国会議員から意見を求められるようになった。その中には、日本の情報機関も含まれていた。彼は歴史問題、尖閣諸島問題、靖国神社問題について日本を批判的に見ていたため、中国では「日本の友人」として知られるようになっていった。

中国の姿を知るためにチベット自治区を除くすべての省を訪れた。省都のみならず農村を調査し、多くの貧困地域の子供たちを支援した。鈴木氏は、どの日本人よりも中国を理解していると考えていた。

鈴木氏は日中政界を行き来し、日中交流を推進するために奔走し、ついに日中友好協会で最も若い理事長に抜擢された。日中友好の架け橋として期待された人物だった。ある事案に巻き込まれるまでは。

つづいて、鈴木氏が北京で得た獄中見聞を書いていく。

江左宜
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