妊婦や子供も容赦なく惨殺 日本人が忘れてはならない「通州事件」

2024/11/02
更新: 2024/11/01

2024年2月3日に掲載した記事を再掲載

昭和12年(1937)7月7日、盧溝橋事件が発生し、日中戦争が泥沼化してゆく中、北京近郊の通州で日本の民間人225人(朝鮮人111人含む)が虐殺される事件が起こった。

昭和12年(1937)7月29日、通州事件と呼ばれるこの事件は、その殺害方法が、猟奇的で凄惨であり、戦後、日本では殆ど語られることなく、半ばタブー扱いされてきた。当時、城壁に囲まれていた街も、何事もなかったように、今や城壁も建物も無くなり、ただ1400年前の唐代に建造されたとも言われる仏舎利の塔だけが残っている。

なぜこの事件が発生したのか、その理由について様々な説が出た。事件の数日前、実行犯である通州保安隊を日本の爆撃機が誤って誤爆したことや、日本のアヘン販売に対する報復など。しかし、当時、活発に活動していた国際共産党運動(コミンテルン)や中国共産党(中共)など共産主義者の暗躍があったことはあまり知られていない。

通州事件が発生したのは、日中戦争が本格化するきっかけとなったとされる盧溝橋事件から3週間後のことだった。

通州には、国民党とは異なる冀東(きとう・河北省東部)防共自治政府という中国人による親日政権が1935年に発足していた。『慟哭の通州――昭和十二年夏の虐殺事件』(加藤康男著)によると、盧溝橋事件後、にわかに日本軍と中国の国民党軍の衝突が頻発する中、北京など周辺から逃げのびた日本人などで、通州城内の旅館は満杯だったという。

国民党軍との停戦条約により非武装地帯になっていた通州の治安維持は中国人からなる保安隊が担当することになっていた。通州保安隊は他国の保安隊でありながら、日本軍の厳しい訓練を受け、日本内地の士官学校並みの教育も施された強力な部隊であった。日本人は保安隊のことを信頼しきっていた。

しかし7月29日深夜の2時、その保安隊が、寝静まっている日本人を襲った。

「日本人はどこだ」「日本人は皆殺しだ」

惨劇から生き残った者の話によると、日本人を探す殺戮者の声を聞いたと証言している。朝鮮人も日本人と共に殺害された。

無惨に殺害された日本人居留民の遺体(パブリックドメイン)

その殺し方は、敵が敵を殺すというものではなく、無辜の民間人をいたぶり、地獄のような苦痛を味あわせ、残虐に殺すというもので、戦後に行われた東京裁判での証言によると

40歳から17、8歳までの女性は皆、強姦され、裸体で陰部を露出したまま射殺され、うち4、5人は陰部を銃剣で刺されていた。また男性の死体はほとんどすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、「血潮は壁に散布し、言語に絶したものだった。ある子供は手の指を揃えて切断され殺されていた。

というような惨たらしい話が明らかにされていた。

また通州に住んでいたが幸いに生き残り、日本に帰国した女性の証言には、まだ生まれていない胎児を母親の腹を割いて出し、地面に叩きつけて、母子もろとも殺害したというような、とても人間の所業とは思えない話も出ている。

なぜ通州の保安隊が日本人を襲撃、それも非常に残虐な殺し方をしたのだろうか(パブリックドメイン)

新聞には「人生の悲劇をここに ああ鬼畜残虐の跡」(東京日日新聞)

「恨み深し! 通州暴虐の全貌」(朝日新聞)

「ああ悲愁、通州城」などと悲痛なタイトルがつけられ、報道のあまりに残虐な内容に日本人は戦慄し、世論は「中国憎し」の国民感情が大いに高まった。

盧溝橋事件後、日本軍と国民党軍とは一時的に停戦協定も結ばれていたが、この通州事件後、 8月には上海事変、12月には南京が陥落すると、蔣介石は中国の西方の都市、重慶に逃れ、泥沼に片足を突っ込んだまま日米開戦、太平洋戦争に進んでいくことになる。

こうして出来事を俯瞰してみると、通州事件が一つのターニングポイントだったようにも見える。なぜ通州の保安隊が日本人を襲撃、それも非常に残虐な殺し方をしたのか、そこには中国共産党の暗躍の痕跡が残っていた。

(続)

この記事で述べられている見解は著者の意見であり、必ずしも大紀元の見解を反映するものではありません。
大道修
社会からライフ記事まで幅広く扱っています。
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