中華民国は中国の抗日戦争を第二次世界大戦に組み込み、連合国の力を借りて最終的に勝利を収めた。しかし、ソ連の力を借りたことで、ソ連は中国で巨大な利益を得ることになった。
多くの歴史書、例えばポール・ジョンソンの『現代史』(Modern Times: The World from the Twenties to the Nineties・モダンタイムズ:1920年代から1990年代の世界)は、当時、日中戦争に関心を持っていた唯一の大国はソ連であり、日中戦争の大勝者もソ連であったと考えている。中国側で唯一この戦争から利益を得たのは中国共産党だった。ではスターリン率いるソ連は何をしたのか?
ソ連の中国侵略
いくつかの史実から見ると、1937年7月盧溝橋事件から1945年9月の戦争期間中、ソ連も中国を侵略していた。
1944年、ソ連は中国のタンヌ・ウリャンハイ(唐努烏梁海)17万平方キロメートルの国土を不法に併合し、外モンゴルの「独立」を操作した。8年間の抗日戦争勝利後、日本が占領した中国の領土はほぼ回復された。一方、ロシア帝国とソ連が割譲、分割、併合した中国の国土は、1945年までに合計588.388万平方キロメートルに達し、現在の中国の陸地国土面積の60%を占めており、返還の見込みはない。
1934年と1937年にソ連は中国の新疆に軍を派遣し、1940年には中華民国新疆省政府主席だった盛世才に「新ソ租借条約」(通称「錫鉱協定」)の締結を強要した。1944年にはイリ暴動と「東トルキスタン共和国」の樹立を画策した。
1937年末から1938年上半期にかけて、ソ連は極東地域の民族を粛清、半年間で1万人以上の中国人を罪名を捏造して逮捕し、そのうち3千人以上が処刑された。1917年のいわゆる「十月革命」以前、ロシアには20万人以上の中国人労働者がいた。1926年のソ連の人口調査時には、ソ連全体でまだ10万人の中国人がおり、そのうち7万人が極東地域にいた。しかし、1940年代には、極東地域の中国人はほぼ姿を消した。さらに深刻なのはソ連が日本に対して誘導、黙認、容認、支持などの役割を果たしたことだ
中東鉄道事件が悪例を開く
ソ連は中国の東三省(遼寧省、吉林省、黒竜江省:満州の別称)地域でロシア帝国から多くの利権を引き継ぎ、中東鉄道(東清鉄道)はその一つだった。中東鉄道はソ連が中国に差し込んだ「革命手指(革命の指)」と比喻されていた。スターリンは極東におけるソ連の利益と安全を確保し拡大しようとしていた。
1928年、東三省(遼寧省、吉林省、黒竜江省:満州の別称)を統治していた奉天軍閥の張学良は、元々掲げていた北洋政府の五色旗を国民政府の国旗である青天白日旗に変え、南京国民政府の統治を受け入れることを宣言した。これは「東北易幟(とうほくえきし)」と呼ばれている。
1929年、張学良は名目上中ソ共同管理下にあった中東鉄道の権益を武力で回収しようとしたが、スターリンは「自衛」を口実に再び満州に軍を派遣し、東北軍は大敗した。これは北伐統一後、中国が初めて外国と交戦した事例であり、中国側が自身の権益を回収しようとした行動だったが、失敗に終わった。
大紀元のコラムニスト王赫氏の分析によると、「中東鉄道事件」はソ連が武力で中国との紛争を解決し、勢力を拡大した。
第二に、中東鉄道での一戦で国民政府の東北軍が惨敗したことで、日本は東北軍の実力を把握した。東北軍の軍事力は当時、国内で屈指のものであり、張作霖(ちょう さくりん)は東北軍を率いて3回も関内(万里の長城より南側)に入り、一時は北洋政権を掌握し、日本とソ連も警戒していた。
中東鉄道事件が発生した時、蔣介石は中原大戦と呼ばれる馮玉祥などの軍閥との内戦に陥っており、ソ連に対抗する東北を援助する力がなく、東北地方当局自身で対処するしかなかった。
第三に、中東鉄道事件では南京政府が期待していた西側大国が共同で中国を支持するという状況も、ソ連が予言していた西側大国が連合してソ連に反対するという状況も形成されなかった。
日本の満州国を承認
中東鉄道事件後、1929年7月17日にソ連政府は南京国民政府との断交を宣言した。
1932年3月、日本は東三省に傀儡政権「満州国」を樹立した。満州事変(九一八事変)は世界を震撼させ、張学良、蔣介石および国内外の各方面の予想を超えるものだった。外部の人々は皆、スターリンが中国東北での既得権益を簡単に手放すとは思っていなかった。実際、当時東北の情勢を左右できる国際的要因は、中東鉄道を支配するソ連だけだった。
事変後ソ連は軍を派遣して介入するどころか、いわゆる「不干渉政策」を堅持し、日本が中国東北全体を併合する行為に無関心だった。ソ連は1932年にいち早く「満州国」を承認し、日本と中東鉄道の売却交渉を開始した。
なぜスターリンは日本に対して妥協し続けたのだろうか? 多くの研究者は、その理由をソ連が西側からのドイツの脅威に対応するために力を集中する必要があったからだと結論づけている。しかし、この説明は1933年以前の国際情勢には適用できないことを指摘する必要がある。1933年以前は、ナチスはまだ政権を取っておらず、ドイツの軍備再編も1935年以降のことだった。
満州事変の際、ソ連はなぜ西側から直接的な圧力に直面していない状況で、日本による中国東北の併合を黙認することを選んだのか? ソ連の一連の行動の動機は何だったのか?
一つの見方では、スターリンはあらゆる手段を尽くして日本からの戦争という禍を中国に向けようとしたとしている。なぜなら、当時の日本とソ連の矛盾と憎しみは、中国と日本のそれよりも深かったからだ。日本にとって、ソビエト・ロシアは重大な脅威だった。日本の1907年の「国防方針」では、第一の仮想敵国はロシアで、1918年、1923年、1936年には、仮想敵の順位は米、ソ、中と調整され、1936年にはさらにイギリスが加えられた。
日本の戦略目標は南北並進だったが、陸軍は依然として対ソ作戦を目標としていた。日本陸軍参謀本部が1936年6月に世界大戦で必要な持久戦のために作成した「国防国策大綱」では、作戦手順として北方の脅威を先に除去し、ソ連の極東における軍事力を徹底的に破壊することを最優先任務とした。
さらに、満州事変の直後、1931年11月7日に中華ソビエト共和国臨時中央政府が江西中央ソビエト区に設立された。日本の中国侵攻は、中国共産党の発展にとってちょうど歴史的な機会を提供した。そして中国共産党は、まさにスターリンの手中にある戦略的な駒だった。
戦争の禍を中国に向ける
1937年7月7日夜、河北省宛平県の盧溝橋で、日本の中国駐屯軍と現地に駐屯していた国民革命軍第29軍との間で軍事衝突が発生した。その後、平津作戦が行われ、第29軍は敗北して保定に撤退し、平津地区は日本軍が占領した。盧溝橋事件は日中戦争の幕開けとなった。盧溝橋事件には一定の必然性もあれば偶然性もあったが、当時の情勢下では必然的に全面戦争に向かうことになった。では、盧溝橋事件で最初の一発を撃ったのは誰だったのか?
現在まで広く伝わっている説は4つある。第一の説は日本軍、第二の説は国民革命軍、第三の説は共産軍、第四の説はソ連のスパイが最初の一発を撃ったというものだ。
長年にわたり、日本国内では北進と南進という二つの戦略をめぐる争いがあった。「北進」はソ連を攻撃することを意味し、「南進」は中国大陸に対する覇権的地位を確保した後、太平洋地域へ拡張を行うことを意味し、主な仮想敵国はアメリカ、イギリスなどだった。1936年8月、広田内閣の「国策基準」で「南北並進」方針が確立された。
当時、ソ連は大きな国際的圧力に直面していた。例えば、1936年11月にナチス・ドイツと日本帝国が「防共協定」を締結し、その矛先はソ連に向けられており、ソ連は二正面作戦の見通しに直面していた。また、日ソ国境での小規模な衝突が増加していた。満州事変が勃発する直前の1週間、日本とソ連は中国東北の国境地域で武力衝突を起こし、全面戦争に発展しかけていた。
しかし、満州事変後、日本は迅速に「積極的北進」から「機会を見て北進」へと転換した。
対ソ作戦用の兵力が中国戦線に投入されたことで、日本軍の北進戦略実施能力は大幅に弱められた。
スターリンは自身が直面する国際的危機を解決するために、あらゆる手段を尽くして日本を北進から南進戦略へ転換させようとし、さらにスパイを日本軍部内部に送り込んで工作を行っていた。
コミンテルンのスパイであるゾルゲは、近衛首相の機密秘書である尾崎秀実や軍務局長の武藤章を操り、対ロシア作戦派の石原莞爾を失脚させた。このスパイ事件は1941年10月に尾崎が逮捕されるまで発覚しなかった。
上記の事実から見ると、スターリンが日本の中国侵略を助長したという説は根拠のないものではない。スターリンが中国の抗日戦争を支援した目的も、日本を中国に引き込み、自身への脅威を回避することだった。例えば、1935年に中国共産党がモスクワから「八一宣言」を発表し、内戦の停止を要求したこと、スターリンの介入により西安事変が平和裏に解決し、国民党と共産党が再び協力関係に向かったこと、盧溝橋事件後に中ソ間で「中ソ互不侵犯条約」が締結され、ソ連が軍事援助を提供し拡大したものの同盟関係の締結は拒否したことなどが挙げられる。
アメリカのスタンフォード大学東欧史教授ノーマン・ナイマーク(Norman M. Naimark)氏は、「スターリンは非常に優れた戦略家だった。もちろん、スターリンは悪魔であり、周知の通り、悪魔はさまざまな姿で現れる」と述べている。
(編集:大道修)
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