【ニュースレターが届かない場合】無料会員の方でニュースレターが届いていないというケースが一部で発生しております。
届いていない方は、ニュースレター配信の再登録を致しますので、お手数ですがこちらのリンクからご連絡ください。

ジャン=マリー・ルペン 偉大な人物

2025/04/14
更新: 2025/04/14

ジャン=マリー・ルペンは、フランスのみならず世界の歴史に名を残す20世紀の重要人物である。

彼は単なる政治家ではなく、議会という権力の中枢にいるプロフェッショナルでもない。彼は何よりもまず行動的な人間であり、高度な教養を持ち、世界の現実と時代の厳しさを知っている。軍隊に所属し戦場に出たこともあり、何度も自分の命と名声を危険に晒すことをためらわなかった人間である。

彼は、人間を機械化し、「民主主義」を口実とした新しい独裁政治の奴隷へと貶めることを目的とするグローバリズムのシステムに対して戦った人物である。このシステムは、すでに全世界に広まりつつあり、都市に溶け込んだポストモダン的な人間、家族や田園から切り離された個人、物質主義的で快適さを追求することで肥大化した個人を生み出していた。彼はこれに抗い、伝統的な農民、伝統的な結婚、そして伝統的な道徳的価値観を守るために立ち上がった。

ジャン=マリー・ルペンが偉大な政治家であったのは、彼が将来を予見する術を知っていたからである。彼は誰よりも早く、大量移民、中絶、生命と家族への攻撃がもたらす弊害を警告し、EU、軍隊や外交の弱体化、国営学校で幼い頃から子供たちに植えつけられる自虐史観、主権への攻撃も警告してきた。

彼が書いた回顧録には重要な証言が残されている。彼の人生は、今日の我々の政治闘争への教訓に満ちている。彼の回顧録はまた、今は過ぎ去った時代の歴史の1ページでもあるが、現代の悪弊を理解する上で極めて重要なものである。

私たちは、祖国を心から愛する日本人のために、この回顧録が日本語に翻訳されることを祈り、またそのために努力するつもりである。

彼は、現在公然と私たちの伝統や道徳、自然法的価値観を抹殺しようとしているグローバリストの危険性をいち早く理解した人物である。その執念深さと堅実さによって、あらゆる困難に立ち向かい、近代的な政治体制や革命国家、さらには公益と真実への奉仕を妨げようとする政治的徒党にも立ち向かった。これらの挑戦を乗り越えた彼の成功は、世界中の愛国者にとって模範となっている。

彼の闘いはすでに報われ始めている。フランスの若者たちは今の共和制と民主主義的な政治において何が間違っているのかをますます認識するようになり、ジャン=マリー・ルペンの警告は今、私たちの日常生活の中で現実のものとなりつつある。彼は本質的に正しかったのであり、もはや死者に敬意を払うことさえできないほど凡庸な彼の敵でさえ、誰もそれを否定することはできない。

彼がカトリックの信仰に帰依し、死の前に秘蹟を受けたことに注目しよう。

晩年にはカトリックの結婚を結び、さらに終油、告解、御聖体拝領の秘蹟を死の前に受けた。これは伝統的なフランス人にとって極めて重要であり、彼の霊魂にとっても有利な出来事である。この事実は、彼が創造主である天主との平和のうちに帰天し、天国において天主と共にあることを示しているといえる。

彼は、多くの聖職者の誤りや、自身が一時的に信仰から離れていた時期があったにもかかわらず、常に教会とキリスト教の伝統を守り続けてきた。これは、古いフランスと彼の出身地であるブルターニュの王党派や反革命の伝統に従う姿勢であった。

回顧録において、ルペンはカトリック教会における「革命の津波」とも言える第二ヴァチカン公会議に毅然と抵抗したルフェーブル大司教を賞賛している。ルフェーブル大司教は、聖伝の信仰を守り抜いた人物として描かれている。また、ルペンは自身が政治の場で行った戦いと、ルフェーブル大司教の姿勢との類似性を強調している。

このような点からも、ルペンは伝統的なフランス人の典型であると言える。それぞれの立場を尊重しつつ、伝統的な聖職者たちの戦いを支援した人物として評価されるべき存在である。

彼の唯一の欠点を挙げるとすれば、フランス革命以前の政治伝統を引き継ぎ、王政復古を提唱する最も伝統的なフランスの政治派閥(いわゆる反革命派)である「政治的レジティミズム(正統主義、Legitimism)」に踏み込むことができなかった点、そして「体制」に抵抗しながらも、その体制内に留まり続けて闘おうとした点である。しかし、彼の経験は非常に教訓的であり、その欠点さえも私たちに重要な示唆を与えている。

現代におけるグローバリズム革命との闘いにおいて、彼の教訓は次のようなことを示している。すなわち、グローバリズムの道具を用いてその革命と闘うことは本質的に不可能であるということだ。革命的な手段を用いれば、それ自体が新たな革命へと繋がりかねないため、純粋に伝統的な手段に依拠することがいかに重要であるかを私たちに教えてくれるのである。

彼を長年よく知るブルーノ・ゴルニッシュは、ルペン逝去時の弔辞の中で、この20世紀を代表する人物の生涯を次のように語った。

『私たちが知り、愛したこの男は今、生まれ故郷のブルターニュに眠っている。漁師の頭の息子である彼は、幼い頃から慎ましい生活と歴史の試練を経験した。14歳のとき、占領下のフランスで、父親が機雷による爆発で命を落とし、その無残な姿を母親とともに確認するという悲劇に直面した。死の恐怖に直面しながらも、占領軍の命令に背き、父のライフルを隠し持ち続けた。そして2年後、レジスタンス活動に参加するため、サン・マルセルに向かった。

その間、ヴァンヌのイエズス会の学校でラテン語、ギリシア語、フランス語の詩を学び、亡くなるまでに多くの詩の全文を暗唱した。

学費を稼ぐため、漁師や炭鉱夫として働いた時期もあった。パリ大学の法学部では、そのカリスマ性から学生組合「コーポ」の会長に選ばれた。大胆にもこの組合を利用し、当時の共和国大統領ヴァンサン・オリオールの協力を得て、大洪水に見舞われたオランダの人々の救援に学生たちとともに向かった。

しかし、フランスは深刻な危機に直面していた。かつての壮大な帝国は、今でも多くの人々にとって懐かしい存在である一方、共産主義勢力の野心と攻撃にさらされていた。そんな中、ルペンは軍隊に志願し、1953年にサン・メクサン歩兵学校へ入学した。その後、自ら希望して再びインドシナ戦争に参加し、エリー・ドゥノワ・ド・サンマルク士官の指揮下で外人部隊の少尉として第一落下傘部隊に配属された。

帰国後、ルペンはピエール・プジャードが率いる運動の青年組織「フランス青年防衛同盟」のリーダーとなった。この組織は、職人や商店主、農民たちが税制の重圧や伝統的な職業を消滅させようとする政府の政策に抵抗するためのものだった。ルペンはこの運動を牽引し、27歳でパリの代議員に選出された。当時、彼は最年少議員のひとりとして注目を集めた。

1956年10月、彼は国民議会の議員席を離れ、かつての部隊に復帰し、エジプトのポートフアード上陸作戦に参加した後、アルジェリアのFLNとの戦いに参加した。FLNの組織的なテロ手法は、ヨーロッパ系、イスラム系、ユダヤ系を問わず、フランスのアルジェリア人を襲った。

1958年、彼はフランス独立農民センター(Centre National des Indépendants & Paysans)の旗の下、見事に再選を果たした。議会での弁舌に優れ、アルジェリアの全住民に民族や宗教の区別なく平等な権利を与えるよう熱心に運動した。

しかし、1962年に選挙で敗北すると、ルペンは民間人としてのキャリアをスタートし、SERPという会社を設立した。SERP社は、多くの歴史的文書を出版し、数々の賞を受賞し、現在もドキュメンタリーやさまざまな番組、歴史博物館などがSERP社の商品を使っている。

アルジェリアの同胞、特にフランスに忠誠を誓っていた「ハルキ(先住民でフランス軍に所属していた人々)」が見捨てられた。この状況に憤慨したルペンは、全体主義的で征服的な共産主義に対する政治層の自己満足にも反発し、1965年に弁護士ジャン=ルイ・ティクシエ=ヴィニャンクールの選挙運動責任者となった。

失望することなく、彼は1972年に国民戦線を創設した。議会選挙や大統領選挙で控えめな結果(1974年には得票率1%未満、1981年にはスポンサー不足で立候補できず)に終わったが、それに臆することはなかった。多くの者が諦める状況でも、彼は違った。

1974年5月1日、フランス大統領選挙候補者であるジャン=マリー・ルペン氏が、サン=クルーで家族とともにポーズを取っている。写真には妻のピエレット(右から2人目)と、娘たち(左から右へ)マリー=カロリーヌ、マリーヌ、ヤンが写っている。 (Photo by AFP) (Photo by -/AFP via Getty Images)

選挙運動の費用は彼自身が負担し、記者たちから嘲笑を受けることもあった。また、暴力の増加にも直面した。1976年には爆弾テロで住居が破壊されるも、彼と家族は奇跡的に生き残った。さらに1978年にはフランソワ・デュプラが暗殺される事件も起きたが、それでも誰も彼を止めることはできなかった。

ジャン=ピエール・スティルボワが率いたドリュ市議選やオーレイの補欠選挙、パリ20区の補欠選挙などでは突破口が示され、不屈の精神で挑んだ結果が現れ始めた。テレビ番組『L’Heure de Vérité(真実の時だ)』ではフランソワ・アンリ・ド・ヴィリューの尽力によって出演が実現し、大成功を収めた。この出演を通じて知名度を高め、多くの支持を集めるようになった。

1984年の欧州議会入り、1986年のフランス国民議会での34議席獲得など、この出世のすべてのエピソード、成功の瞬間と試練と苦難を語るにはここではスペースが足りない。

ジャン=マリー・ルペン氏(国民戦線の指導者)が、1985年10月20日にパリ近郊のル・ブルジェで行われた党の集会で演説している。(Photo by Derrick CEYRAC / AFP) (Photo by DERRICK CEYRAC/AFP via Getty Images)

そして1998年、私たちは国益を最優先に考え、「RPR-UDF」(現在の「LR」)という右派政党の地方議会議長候補に投票することを決めた。この選択により、23地方のうち19地方が左派の支配から解放されるはずだった。しかし、当時の大統領ジャック・シラクはこの投票を拒否し、少数派であった社会主義・共産主義連合に地方の鍵を渡すよう支持者に命じた。その結果、左派支配から救われた地方はわずか4つにとどまった。

私は1999年の痛ましい危機も思い出す。あの年、私たちは分裂に苦しんだ。優秀な幹部が揃っていたにもかかわらず、性急すぎた行動が不幸な分裂を招き、我々自身を弱体化させてしまった。それでも我々は立ち直り、2002年の大統領選挙という歴史的な瞬間に直面した。初めて、体制に挑む愛国的な候補者が、小規模な組織と限られた資源で現職首相を抑え、決選投票に進出したのである。

しかし体制側は内戦状態とも言える状況を作り出し、憲法や法律が定める候補者間の平等な扱いを無視した。ルペンはその代償を大きく支払わされることとなった。彼の選挙運動を妨害した者たちは後になって「彼は権力を欲していなかった」と語るが、それは真実とは程遠い。ルペン自身も「まるで銀の皿に乗せて差し出されたものを軽蔑して断ったかのようだ」と皮肉った。誹謗中傷や政治的・司法的・経済的・メディア的迫害が彼を取り囲む中で、この言葉には重みがある。

ルペンは中傷され、活動家と同様に物理的な攻撃にもさらされた。それでも彼は屈することなく、嵐の海に立ち向かう船乗りのごとくメディアや世論に立ち向かった。時代を先取りしていた彼は、大量移民や治安悪化、フランス人アイデンティティの喪失など、フランスを脅かす危険、グローバリズムの弊害について警告していた。当時嘲笑されていたそれらの警告は、今では予言のように聞こえる。

メディアではルペンを残忍な人物として描いていたが、それは事実とは異なる。彼は威厳に満ちていながらも、不正や弱者への苦境には敏感だった。信念を曲げることなく戦い抜き、侮辱にも寛容であった。彼の姿勢には勇気と誇りがあったのである。

無知な、あるいは悪意ある論者は、彼の長いキャリアや膨大な著作、演説、議会での活動をわずか2、3の言葉にまとめてしまい、それを非道だとか冒涜的だと批判する。

しかし、彼の演説や出版物を総合的に見れば、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒、不可知論者を問わず、フランス人を出自や信仰によって差別しようとする呼びかけは微塵もない。

彼はフランス国民の目を覚まさせるために尽力した。そして、自分たちのアイデンティティが脅かされている現状に気づき、同じような問題に直面している他の民族にも希望を与える存在だった。ヨーロッパだけでなく世界中で、彼の考え方に共感し、その模範に倣う人々がいる。彼はフランスのアイデンティティを守ることで、結果的に他民族のアイデンティティも尊重していた。その行動は普遍的な価値観に基づいており、多くの人々がそれを理解している。

ここ数日間、私たちは彼の家族や親しい人々、そして彼を愛したすべての人々に心を寄せている。また、彼の活動を支えるために努力し、多くの犠牲を払ったすべての仲間たちにも思いを馳せている。

彼は真実を見抜く力を持ち、人々に気づきを与える存在だった。凡庸な人々だけで自分を囲むことを好む一部の指導者とは違い、彼は幅広い才能や知恵を積極的に活用した。彼は心からフランスを愛していた。父親がいなかった彼は、自分がフランスという国家に養子として迎えられたと感じていた。しかしフランスは必ずしも彼に十分な恩返しをしたわけではない。

それでもなお、彼が示した模範や復活への呼びかけが残っている限り、そのような些細なことや不満などは重要ではない。彼の遺したものこそが未来につながるのである』 

この記事で述べられている見解は著者の意見であり、必ずしも大紀元の見解を反映するものではありません。
1990年フランス生まれ。セルジー・ポントワーズ大学数学部卒業。 同学院にて歴史学の修士号を経てから、慶應義塾大学大学院経営管理研究科にてMBA取得。 現在は、外資系銀行に勤務しつつ、國學院大學後期博士課程にて法制史を専攻。フランス正統王党派についても研究