思い出って何だろうと考えていると、もう60年以上になる小学生時代の出来事がいろいろと浮かんできた。当時、テレビのある家は少なく、そのテレビ中継を見るために、近くの幼稚園に皆で集まったことが記憶にある。その時から、私はテレビに魅せられてしまったらしい。
2月6日に指揮者の小澤征爾さんが亡くなられた。友人は、彼が好んで指揮をしたベートーベンの弦楽四重奏16番の3楽章を何度も聴いてますと連絡をくれた。
いつからか、年末年始の特別な感覚がないまま、新しい年を迎えてしまうようになっている。
義兄(姉の夫)は、買い物好き。とくに食料品の購入が著しく、仕事の帰りに美味しそうなものを見つけると買って帰るので、姉が献立が狂うと嘆いていた。戦争中の食糧難を経験した反動とのこと。年末から年始は、兄にとっては大手を振って買い物ができる時だった。
高1の2学期に転校をした。登校初日の不安そうな私に声をかけてくれたのがK子さん。その時の彼女の優しい笑顔が今でもはっきりと目に浮かぶ。学校が彼女の実家に近かったので、ご両親にもお世話になった。卒業後、彼女不在の時にも、彼女のお母さんを訪ねていろいろ励ましてもらったこともあった。彼女は高校時代に石浜みかる著『こんにちはイスラエル』(1965年)に感銘を受け、短大卒業後にキブツに単身留学。今改めて考えると彼女の勇気と決断には驚きではあるが、当時は私も好き勝手に生きていたので、彼女のイスラエル行も自然に受け入れていた。
3年前の3月、ドイツの義兄(次姉の夫)から電話がかかってきた。そんなことは初めてだったので驚いたが、自分の80歳のお誕生日のお祝いをするので、家族みんなで来てほしい。航空券を送るから、ぜひとのことだった。突然だったのと、コロナのこともあり、当然ながらその招待を受けることはできなかった。そして、彼(ライナー)はその年の10月に亡くなった。
とっさに「私は“忘れられた女”だ」との言葉が出てきて、皆で笑ったが、この“忘れられた女”という言葉は、昔読んだ、マリーローランサンの詩の中の一説の引用である。
昨年(2022年)に21歳で亡くなったシェリー爺の妹分猫にクルミ(当年18歳)がいます。生後2日目に野良の親からはぐれ、さまよっているところを2匹のカラスに見つかり、まさに襲撃される寸前、たまたま台所の窓から見ていた近所の人に救出された強運の持ち主です。縁あって我が家にやってきました。
先日、所用の帰りに新宿駅を歩いていたら、道端に座しているホームレスの姿を見かけた。最近は、日常の行動範囲の中ではあまり見かけなかったが、その姿を見て、40年くらい前のことを思い出してしまった。1982年ごろから1983年にかけて、少年達が山下公園や横浜スタジアムで浮浪者達を襲い数人が亡くなった事件で、少年たちの残虐性や生命に対する稀薄性に対し、社会が受けた衝撃は大きかった。彼らは浮浪者たちを、狩りの対象として遊んでいたようで、逮捕後も反省の色が薄いと報じられていた。
私は、小学生の頃、祖母が購読していた雑誌「婦人之友」(自由学園創設者の羽仁説子創刊)が毎月届くのが楽しみで、そこで紹介されている文化人やその家族にひそかに憧れ続けたものでした。
「とにかく、浮かんでくる言葉を書きとめて、ためていくのです」。
これは30数年ぶりに再会した、中学時代の担任の原子修先生の言葉だ。
国語の先生で、オールバックの髪型で、澄んだ目がいつも遠くを見ていた。淡々と行われた授業はちっとも面白くなく、職員室でも他の先生方とむれず、いつも一人だった。
大好きな作品である映画「スタンドバイミー」。今でもテーマ音楽が流れると、あの四人の少年たちの姿が浮かんでくる。
わが家にも「スタンドバイミー事件」とよんでいる忘れられない事件がある。今から33年前、息子が中学生の時のこと。私が帰宅すると、息子が頭を抱えて挙動不審の様子をしている。
かのシュバイツアー博士の言葉「人生の困難から逃れる道は二つある。音楽と猫だ」。
昨今の住宅事情でペットを飼えない人もたくさんいる。動物が好きなゆえに、「責任もった飼い方ができないなら飼わない」という人は私は好きだ。散歩中の犬や外猫を見て、ふと忙しい足をとめて、やさしい表情で動物と笑みを交わしている姿に接すると、この人絶対いい人だと思ってしまう。
母は11年前に94歳で他界した。大正5年(1915年生まれ)で、私の曾祖父母や祖父母を取り巻く親族の話をいろいろと聞かせてくれた。どれも面白く忘れられない話が盛りだくさん。その中で、これは「母の妄想」として処理しなくてはならない話がある。
母の塾の生徒のM君は、幼稚園のころから落ち着きがなく、いつもいたずらをして叱られていた。園長が、母のところに連れてきた。どうやら母親に問題があったらしい。母親のTさんが思い余って、児童相談所にM君を連れてゆくと、相談員がありとあらゆる玩具がいっぱい並べてある大きなホールにM君を連れていき、「どれでも好きなもので遊んでごらん」と言うと、M君は他のおもちゃには見向きもせず、真っ先に向かったのは砂場だったという。そしてセーターを脱いで砂場に入った。
亡き母は、一言でいうと、「教育マニア」であった。次姉が東京の大学に2校合格して、地方誌の合格欄に名前が載った時の母のうれしそうな輝いた顔は鮮明に覚えている。
戦争で苦労し、生家は没落、父も軍人だったため捕虜になり大変な苦労をした。一夜にしてお金は価値を失った。そして人間が身に着けるべき価値は、何か。それは「教育」であるという考えに至るのだ。身に着けた知恵や技術は奪うことが出来ないが持論だった。