左翼が目指すのは法治の破壊

2020/06/23
更新: 2020/06/23

米国ミネアポリス近郊で黒人男性ジョージ・フロイド氏が警官に殺されたことを発端に、米国では激しい抗議活動が行われており、それは世界にも飛び火している。もちろん、抗議はあって当然だが、警察の予算削減や解体を求めるなど、その主張はエスカレートしている。また、一部の抗議活動は暴徒化しており、それを左翼政治家やマスコミが容認する危険な状況にある。

この米国の混乱を見たとき、私は2009年から2012年まで続いた日本の民主党政権を思い出さずにはいられない。そこで、今回は日本の民主党政権を振り返ることから始めて、今の米国の暴動を論じたいと思う。

2011年の東日本大震災原発事故の混乱のなか、私は当時小学生だった息子から次のような質問を受けたのを鮮明に覚えている。

「首相の言うことには全て従わないといけないの?」

あなたが小学生の子どもから、こう聞かれたらどう答えるか。その後、大学の技術倫理の講義などで、この質問を学生に何度かしたことがある。残念ながら、私が期待する答えをする学生は多くなかった。「従わないといけない」と答える学生も少なくなく、「だったら首相に死ねと言われたら死ぬのか」と聞くと、「はい」と答える学生もいて驚いた。

私は息子に対して次のように即答した。「日本は法治国家だから、総理大臣が命令できることは法律で決まっている。だから、法律に基づいた命令には従わなければならない。けれども、そうでない命令には全く従う必要はない。首相は自衛隊の最高指揮官なので、ヘリから原発に水を落とすような無意味で無謀な作戦でも、自衛官は命令に従う。でも、浜岡原発を止めるのは経産大臣の権限なので、首相の命令でも従わなくてよい。」

もちろん、この回答は中学の公民で習う知識の域を出たものではない。ところが、民主党政権には、この法治の原則を理解していないと思われる政治家が少なくなかった。上述の通り、菅直人首相(当時)が、越権行為で浜岡原発を止めるように命じようとしたことはそれを象徴する。2012年には田中真紀子文部科学大臣(当時)が、突然3大学の新設を認可しないと言い出して大問題になった。学校教育法九十五条には「大学の設置の認可を行う場合(中略)には、文部科学大臣は、審議会等で政令で定めるものに諮問しなければならない」とある。3大学について、諮問機関である大学設置・学校法人審議会は認可を出していたので、文科大臣がそれを覆すのは明らかに法を無視した越権行為であった。

息子とのやりとりで、私はこう話を続けた。「日本は法治国家だが、世界には法治国家ではない国もある。たとえば、中国や北朝鮮のような独裁国家の場合、独裁者の気に入らないことをすれば、法律に関係なく処罰されるだろう。実は、昔はほとんどの国がそうで、王様の気に入らないことをすれば、処罰されることもあった。」これを聞いた息子は、次のように質問してきた。

「昔は王様が治めていた国々が、どうやって法治国家になったの?」

この質問をされたときは少し焦った。親の威厳が試されているようで、頭の中にある知識をフル回転させた。世界史を学んだことのある人なら、真っ先に思い浮かぶのはマグナ・カルタとフランス革命であろう。

イギリスは、議会が王と話し合うことで、王の権限を徐々に弱めてきた。そうして、徐々に今の法治国家の形に近づいてきたわけである。こうして法治国家になった国では、話し合いによる合意文書や裁判における判例の積み重ねそのものが法になる。いわゆる慣習法(コモン・ロー)である。一方、フランスは革命で王を殺してその権限を奪い取った。この場合、話し合いの積み重ねがないため、誰かが一から法律を作らなければならない。フランスのナポレオン法典に代表される成文法がそれである。

日本の場合は、江戸城無血開城など、話し合いで近代国家になった側面があるが、欧米からの遅れを取り戻して一気に近代国家になるために、ヨーロッパ大陸の法律を借りてきた事情から、成文法の国になっている。私は以上のことを、小学生にも分かるようにかみ砕いて説明したことを覚えている。

成文法に慣れている日本人にとって、慣習法というシステムは奇異に見えるかもしれない。しかし、ローレンス・レッシグの著書『CODE』を読むと、慣習法の考え方の優れた点がよく分かる。同著において彼は、インターネットの普及で生じる新たな社会問題に対して法的に対処する方法を、慣習法の考え方に基づいて導き出している。

日本でインターネットが普及し始めた頃、新たなテクノロジーで生じる問題に対処するため、早く立法で対応しなければならないという主張がしばしばなされた。これは、まさに成文法的な発想である。しかし、慣習法に基づくレッシグの考え方は全く異なる。人類の歴史において全く新しいと思われる問題も、過去を遡れば構造の類似した問題を探すことができる。そこで、人間がどのような解決を図ってきたかを見ることで、新規の問題についても解決の道筋が見えてくる。レッシグは著作権、プライバシーなどインターネットで新たに生じている問題と似た対立構造を持つ過去の事例を探し出し、その事例でどのような決着を見たかを踏まえて、あるべき解決の方法を導出している。

こうした慣習法の考え方は、過去の人間がこれまで行ってきた数多の実験や観察の上に新たな知見を積み重ねていく自然科学の手法と類似性が高い。また、岡本薫氏は著書『世間さまが許さない!―「日本的モラリズム」対「自由と民主主義」』で、日本は文化的に成文法より慣習法の方が向いているのではないかと述べている。

話を米国の暴動の話に戻そう。今の米国の暴動とそれを支持する人たちを見て私が強く感じるのは、法治の著しい軽視である。これは左翼に見られる典型的な態度である。不法移民に対して寛容なことも、彼らの法の軽視を象徴する。それを目立たなくするため、歯向かう人に「移民反対の外国人差別主義者」とのレッテルを貼る。しかし、実際には不法移民に厳しい政策を望む米国人の多くは、合法の移民には反対していないのである。

今回の暴動においても、法の軽視が被害を招いている例がある。日本ではほとんど報道されていないので、デービッド・ドーンの名を知る人は稀有だろう。彼は元警官の黒人で、今回の暴動に乗じて商品を盗んだ暴徒を止めようとして殺された。その後捕まった犯人は、2014年にも強盗をして懲役7年の判決を受けたのに、保護観察になっていた人物であることが分かった。刑が法律どおり執行されていれば、この殺人事件は起きなかったのである。こうした減刑の背景に左翼による政治的圧力がある。新型コロナウイルス流行を理由に、米国の左翼が受刑者の釈放を求めたことは記憶に新しい。彼らは一貫して法を犯す者に甘い。

左翼が警察を極端に嫌うのも、それが法の執行機関だからであると考えると説明がつく。法治を尊重する者は、法に違反した警察官に対して、法に基づく処罰を求める。法治を尊重しない者は、警察を解体して革命を起こそうとする。シアトルでは警察が立ち入りできない自治区CHAZ(Capitol Hill Autonomous Zone)が作られたが、その内部ではあらゆる犯罪が野放しになっている。民主党のシアトル市長とワシントン州知事は見て見ぬふりを続けており、警察や州兵を動かす気配はない。

しばしば、暴徒たちは左翼ではなくアナーキスト(無政府主義者)ではないかとの指摘を受ける。しかし、自治区で彼らがやっていることは、武装による警備、みかじめ料の徴収、IDによる入境管理である。これらはアナーキストのやることではない。彼らは既存の法律を無視するので一見アナーキストに見えるのかもしれないが、結局は自分が支配者になりたいだけなのである。

なお、シアトルの自治区CHAZは、その後CHOP(Capitol Hill Organized Protest)に名称を変えたが、この言葉には斬首(ギロチン)の意味がある。実際、シアトルの自治区で暴徒の次のようなやりとりが動画として記録されている。

リーダー「フランス革命に賛同しなかった人がどうなったか知っているか?」
仲間たち「首を斬られた(Chopped)」
リーダー「もっと大きな声で」
仲間たち「首を斬られた (Chopped)」
リーダー「これが俺たちのメッセージだ。真面目な話だ。冗談ではない」

世の中には、左翼が犯罪者に見せる情に騙される人がいる。しかし、彼らは自分に従わない者、さらには政治的に利用価値のない者には決して情を見せない。彼らが犯罪者に甘いのは、治安が乱れると革命を起こしやすくなるからである。敵に対しては暴力の行使を全く躊躇しない。左翼が目指すのは暴力による法治の破壊であることを我々は見誤ってはいけない。その先にあるのは、独裁による恐怖政治である。


執筆者:掛谷英紀

筑波大学システム情報系准教授。1993年東京大学理学部生物化学科卒業。1998年東京大学大学院工学系研究科先端学際工学専攻博士課程修了。博士(工学)。通信総合研究所(現・情報通信研究機構)研究員を経て、現職。専門はメディア工学。特定非営利活動法人言論責任保証協会代表理事。著書に『学問とは何か』(大学教育出版)、『学者のウソ』(ソフトバンク新書)、『「先見力」の授業』(かんき出版)など。

※寄稿文は執筆者の見解を示すものです。
※無断転載を禁じます。

関連特集: